上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日)
①農耕祭でのエピソード
お釈迦さまがカピラ城の王子の時、王様の浄飯王とともに秋の収穫を願う春の農耕祭に出席されたときのことです。農民が田畑を鍬で耕しておりますと、土の中からみみずが鍬に引っ掛かって出てきました。そのみみずを小鳥がえさについばんで飛び去って行きました。すると、その小鳥をめがけて大きな鷹がまた襲いかかりました。
その光景をご覧になられて、王子はふさぎこまれ、夕方まで考え、物思いにふせられたということです。
なぜ、お互いに殺しあうのであろうか?本当に自分がかわいいのであったら、自分を大切にすると同時に、他人も大切にしていくということに気づかなければならないはずなのに、他人のことはかまわずに、自分が一番大事と思って我が身だけを守っている。そのことに王子は気がついたのです。これが出家なされた原点の一つであり、仏教の問題点なのです。
②お釈迦さまのことば
すべてのものは、暴力におびえる。すべての生き物にとって、いのちはいとおしい。おのが身に引き比べて、殺してはならない。殺さしめてはならない。(ダンマパダ 第10章)
「おのが身に引き比べて」というところが大事なことです。
③コーサラ国のハシノク王とお妃のマツリカの話
王様がお妃に「この国は、豊に栄え民衆も穏やかに過ごし、何の不足もないが、そなたにとって一番いとおしいものは何か?」と、聞かれました。お妃は「王様です」とは答えずに、「自分が一番いとおしいです。」と答えました。また、逆にお妃が王様に同じように質問されると王様も「自分が一番いとおしい」と答えられたということです。そこで、この答は正しいのかをお釈迦さまに尋ねに行かれたところ、お釈迦様は「その通り、それで間違いない。」と答えられ、「だからこそ他の人もまた、自分が一番かわいいと思っていることに気づかねばならない。」とおっしゃられました。お互いに、自分が一番いとおしいと思っている。自分と同じく、他の人も自分が一番かわいいと思っていることに気づかなければならない、ということをおっしゃったのであります。仏教の原点と、仏教の内容の全てがこの話の中に込められているのではないかと思います。
④思考の転換
「おのが身に引き比べて」ということは、私があの人の立場だったらどうだろうか?と、相手の、他の人の身になって考える。そうすると私を中心に考えていた世界が、ガラッと変わってきます。私の命が大事なように、すべてのいのちが大事ということに。縁起の教えとも通じますが非常に大事なことです。
自分しか見えていなかったのが、他の人も見えるようになる。これが智慧というものです。
すべての生きとし生けるものがいとおしい。これがお釈迦さまのお慈悲です。
⑤金子みすずさんの詩
『 大漁 』
朝焼け 小やけだ 大漁だ
おおばいわしの 大漁だ
浜は まつりのようだけど
海のなかでは 何万の
いわしのとむらい するだろう
金子みすずさんは山口県長門市先崎という港町に過ごされました。漁村ですからイワシがたくさん獲れて漁師たちは大喜びです。しかし海の中では仲間を獲られたイワシたちがお葬式をしているんじゃないだろうか。という詩です。
イワシのいのちと人間のいのちと同じに見ることが出来る人は、これは菩薩さまか仏さまです。先崎は浄土真宗で町が出来ています。そこで育てられたみすずさんだからこそ、普通にイワシも私も同じいのちじゃないかということが分かるのです。
それがなかなかわからないのです。「煩悩にまなこ障えられて」と親鸞聖人もおっしゃいます。
⑥すべてのものは幸せであれ
いかなる生き物であっても 一切の生きとし生けるものは 幸せであれ。
と、お釈迦さまは語っておられます。どんないのちであろうといのちをもったものは、そのいのちを幸せに過ごしてほしい。これがお釈迦さまの願いです。
ご門主は教章の中で「自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」という言葉を述べられています。私だけが喜ぶのではなくて、他の人もまた喜んでもらえるような豊かな気持ちで居れるような社会をつくることが浄土真宗の目的であり、ひいては仏教の目的であるということがはっきり書かれています。
しかし、私の現実は、今の苦しみは、他人が悪いからだと責任を転嫁してしまいます。周りの状況によって自分が決まると思っているが、実は私自身の心が今の自分の状況を作っているということに気づかなければなりません。これは当り前なことのようですが仏教でないと教えてくれません。
⑦無明煩悩
結局、私は私自身のことを知らない。私が苦しんでいるのは、物がないからでもない。敵が攻めてきたからでもない。他の人がこう言ったからでもない。自分の無知、無明。自分のこころが明るくない。ものを知らないということに原因があるということに気づくということが大切です。そうすることによって、明るくないこころを明るく、愚かなこころを賢いこころに、ものを知ったこころに変えていったならば、私の作り上げている世界が良い方向に変わっていくではないかということです。これが転換の思想です。
⑧お念仏申す
しかし、親鸞聖人は最後の最後まで煩悩があるとおっしゃった。煩悩成就と。成就とは根っからのということ。取り払っても取れないということです。この私が教えを聞き開くことによって、すなわち仏の智慧を頂くことによって、本当の物が見えるようになることが救いということです。この智慧を頂くということがお念仏申すということです。
仏さまから与えられないと気がつかない、これが他力ということです。
私たちは仏さまの教えによって、私の醜い、煩悩成就のこころを仏さまの力でひるがえしてもらって、素晴らしい世界を作り上げていく。これがわれわれの使命ではないでしょうか?