奈良の諸君に告ぐ。120年前のフェノロサの講演

淨教寺本堂で120年前にフェノロサ氏の大講演会 

今から120年前の明治21年(1888年)6月5日淨教寺の本堂にて、アーノルド・F・フェノロサ氏の講演が岡倉天心(覚三)さんの通訳により開催されました。

*講演に至るまでの概略

フェノロサ氏は、1878年夏に来日し、9月から東京大学で哲学・経済学を教えました。来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅しました。
やがて彼はショックを受けます。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていました。
特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていました。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていました。財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々あったそうです。
※廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)は、日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行です。明治元年(1868年)、明治維新の直後に神仏分離令が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊され、約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われました(薩摩では一時期全寺が潰される苛烈なものだったそうです)。
今では信じ難いですが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時に120名の僧が神官に転職させられ、五重塔が25,000円(現価)で売りに出されました。最終的には誰もいない無住の荒れ寺となってしまいました。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したといわれています。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒されました。
フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がりました。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に日本の芸術・仏教が素晴らしいかを事あるごとに強烈に訴えました。1880年(27歳)、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始しました。
こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、1881年(28歳)、滅亡寸前の日本画の復興を決意し、日本画家たちに覚醒を求める講演を行ないます。「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝ります」「日本にしかない芸術があるのです!」。西洋文明へのコンプレックスに支配されていた日本人はビックリ。新政府は日本が芸術の世界では一等国と勇気づけられ、フェノロサの演説を印刷して全国に配布しました。
1888年(35歳)、岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となり、フェノロサは副校長に就き、美術史を講義しました。(「日本人よりも日本美術を愛した男・フェノロサ」参考)
その年、奈良に来て、淨教寺の本堂で講演をしているものが次に示します講演要旨です。

大津昌昭著 『森川杜園の生涯』から
*フェノロサの講演(要旨抜粋)
明治二十一年(1888)六月五日 淨教寺 本堂にて

わたくしは昨年、欧州の国々に遊び、とくにイタリアの都、ローマにおいて古物を調べてまいりました。この度は日本のローマである奈良にまいりまして、こうしてみなさんにお目にかかりましたこと、まことに奇遇、光栄、と喜んでいる次第であります。
さて、美術と宗教に関しまして、奈良とローマは大変よく似ております。
徳川時代、人々は、奈良にいかなるものがあるのか知らないまま、三百年を経過してきたのでありますが、昔の人の思想がいかなるものであったかも知らず、古物の価値も知られなかったありさまは、あたかもローマの古物が土中に埋もれたままであった時代と変わりありません。近来となって、古物が探求され、奈良というところも知られるようになりましたが、もしもあの正倉院の御物がなかったならば、日本の古代文化がいかなるものであったか、ほとんど知られないままだったのではないでしょうか。
それら日本の美術は、ヨーロッパのものとすこしも劣るものではありません。つまりアジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。
奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみでありへます。
奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。
ですから、願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります。
美術について申しますと、ただ器用さや精巧さのみを競わず、昔の人の高尚なる精神をとらえるよう努めるべきであります。
美術の本義とはいかなるものか。大意を申しますと、人の心にあるものを外に表すものであります。もし人間世界に美術がなければ、人間は機械的となり、人情は野卑におち、蒸気機関と同じありさまとなりますことは、歴史に明らかであります。美術は、いついかなるときも文化世界にけっして欠かせないもの、文化の要であります。
しからば日本人は、特有な高尚の思想を研磨し、もって世界に勝ちを制するべきだと思うのでありますが、しかし、完全に達するは、一朝一夕にしてなるものではありません。その機会を得るには、美術の教育にあります。しかし美術は機械ではありません。心の感得物であります。
美術の妙味は、規則をもって教えられるものでなく、名作を多く見て、自然と感得するところにあります。それには、名人の遺作を多く蒐集する博物館を設ける必要があります。
それには、模範なる古物が散逸しないよう、一か所に集めなくてはなりません。
最後にわたくしが奈良のみなさまに望みますところは、ここでみなさまが奮発し、率先して、日本美術復古の唱導者となってほしいことであります。
この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、この古物の保護保存の大任は、すなわち奈良のみなさんが尽くすべき義務であり、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。

(講演内容全文希望の方は、淨教寺までお知らせ下さい。差し上げます。)

2008年06月01日 法話
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