冥加(みょうが)・冥見(みょうけん)

法雷カレンダー3月の法語は、

「 勿体な 冥加よろこび 冥見を はじて衣食に 足ることを知れ 」でした。

それを中国語訳では、

「 慶喜蒙佛庇佑 慙愧佛眼照我 衣食知足。 」(訳:釈瑞覚さん)と示されています。

冥加とは、仏の庇佑(ひゆう)を蒙ること。庇(ひさし)とは、軒下の小さな屋根のことをいいます。そこから「かばう」とか「おおいかくす」「おおいまもる」という意味があります。佑は「たすける」という意味があります。庇佑とは、目に見えない仏力のはたらきに、かばい、まもられ、たすけられているということです。
冥見とは、佛眼、われを照らす。仏さまの眼差しに照らされた私の姿です。その姿は、とてもお恥ずかしいとしか言いようのない、慚愧せずにはおれない姿であり、それを恥じいるばかりです。そんな私が、今、衣食に不足することなく生活していることを、喜ばせていただかなくてはならないということです。

眼に見えない働きを、親鸞聖人は浄土和讃に、
「 十方微塵(みじん)世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取して 捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる 」 と、お示しくださいます。
「摂取して 捨てず」というはたらきがあるから、阿弥陀と名づけるのである、と言われています。ニュートンは、目に見えない地球の引っ張る力を、引力と名づけました。この力は、あらゆる全てのものに平等にかけられているものですから、万有引力の法則と呼ばれるようになりました。阿弥陀さまの慈悲のはたらきも目に見えませんが全てのものに平等にはたらくものです。

また聖人は
「一切の有碍にさわりなし 光沢(こうたく・ひかり)かむらぬものぞなき」
とうたわれています。

法雷カレンダー4月の法語は、

見てござる 護ってござる 待ってござる ( 瑞劔六十年の仏法 この外になし )」です。
目に見えない、阿弥陀仏の「心配するな、必ず、護り、救う。お願いだからどうぞ私(阿弥陀仏)にあなたをたすけさせておくれ。」という、慈悲のはたらきを冥加・冥見と味わい、尊び、教えを聞き、仏法を伝えていく人生でなかったら、それこそ勿体ないことだと思います。

「法雷2008年3月号 第375号 法のかたみ」 より

仏教はつづめて見れば、
(一)「仏様がみてござる」、
(二)「護ってござる」、
(三)「待ってござる」
という三ヶ条におさまる。

見てござるとなれば、正直になる。うそをつくものは、仏様を知らぬものである。あの人は仏法があるか、ないかということは直ぐ分かる。不正直ものは因果の道理をそっちのけにしている人達である。不正直であって、因果をけとばしている人の行末はまっ暗がりである。仏も菩薩も、諸天善神もその人をお護り下さらぬ。そうなって来ると、悪魔が取巻いて、すること為すことがすべて、あてが外れ、病気になる、貧乏になる。人がいじめに来る、そうして天をうらみ地をうらみ、神も仏もあるものかと、のろいの言葉を吐くようになって来る、まことに気の毒の至りである。

世間の人は仏法を知らず、人をごまかしても、金さえもうければ、それで金持ちになれる、楽が出来ると思っているが、そううまくは行かない。あては向こうからはずれて来る。悪銭身につかずであって、金は一時もうけたが、家庭内で頻繁に病気が出るなど、生きながら、子も親も地獄の苦しみをしなければならぬ。そうかと思うと、また自分も病気になって、入院して、高価な注射を何十本も打ってもらって、今までにためたお金は皆使い果たし、借金残して死ななければならぬ事になる。おそろしいことである。

金を儲けることには汗水たらし、人の物をごまかしても、少しも顧みないのであるが、それより先に、先ず自分の心を修め、身を修め、仏法を信ずる気になることが何よりも大切である。そうなれば、金持ちにはなれないかもしれないが、衣食住に不自由して、野垂れ死にをするようなこともあるまい。自分の心が正しくないのに、人に好かれるような美人になりたいというのは、あまりにも虫のよい話である。心が正しければ、人が好くようになってくる。それが福来るというものである。一家の繁昌もそれから始まる。

2008年04月01日 法話
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