自誡(じかい)

自誡 (じかい)

人をそしらず 自慢(じまん)せず
卑下(ひげ)もせずして 己(おの)が身の
及(およ)ばぬことを 慚愧(ざんぎ)して
真の佛弟子 念佛行者
自覚を持ちて 教人信(きょうにんしん)
俗に交り 俗を越え
浮世の栄花 夢と見て
生死(しょうじ)の大事忘れずに
真の解脱を望みつつ
不断に倦(や)まず 祖典(そでん)をば
日蔭(ひかげ)おしみて 拝読し
本願力を仰ぎつゝ
深く学ばん 大悲心

瑞 劔

稲垣 瑞劔先生「高僧和讃講讃 -龍樹讃-」

『法雷』第373号(2008年1月号より)

仏教以外の外道は、何に囚われておるかというと、外道は「有」と「無」とに囚われておるのである。「有」といったら「有る」ということである。「無」といったら「無い」ということ。「有」に囚われとるか、「無」に囚われとるかのいずれかである。「財産が有る」といったら、「有」に囚われとる。財産があると云えば、鼻が高いであろう。子供がある、土地がある、器量がよい、学問があるなど、皆「有」である。「無」に囚われるとは、「地獄も極楽もあるかい」というのは、「無」の見である。「有の見」か「無の見」ばっかりである、外道は。「有」や「無」に「囚われとる」のである。

「般若」といったら、「有に非ず、無に非ず」というのが、仏様の智慧の世界である。仏様になると、「無い」というわけにもいかず、「有る」というわけにもいかず、それで安心が出来る。ほんまの智慧と云ったら、「有」にもかたよらず、「無」にもかたよらん、囚われのない智である。

人間は何かに囚われている。「有」に囚われるか、「無」に囚われとる。卑下する人などは「無」に囚われとるのである。「私は財産もありません、家、屋敷もありません。勉強もありません。器量もよくありません」と云って、卑下するであろう。あれは「無」に囚われとるのである。威張るのは、「有」に囚われとるのである。「勉強もあるぞ、財産もあるぞ」というようなもので、「有」に囚われとるので、自慢するのである。「無」に囚われたものは、卑下をする。

「卑下せず、自慢せず」というのは、信心の徳やなあ。何でかというと、阿弥陀様の子やから、卑下することはすこしもいらない。三毒の煩悩を抱えて地獄必定の私であるから、自慢するところは何処もない。「自慢もせず、卑下もせず」という人間が、「念仏の行者」である。同行ら、よう考えてみなはれ。自分で考えてみたらよい。「俺は、自分が自慢しとるか、卑下しとるか」と。卑下もみっともないぞよ。知事さんの前へ行って、「へェー」と、小さくなっとるのも、あれはみっともない。自慢するのもみっともない。
「有」と「無」とに外道は囚われとるのである。まあ、世界中皆そうである。宗教は皆、仏教以外は皆「有無」に囚われとる。「有無」に囚われずに、万物すべてのものについて、有と無の見について、「有に非ず、無に非ず」、これを「第一義諦」という。「第一義諦」といったら、お浄土へ往って悟る、「さとり」である。それが「般若」である。

2008年03月01日 法話
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