ご恩

親鸞聖人のご往生

〇 10月18日から20日までの3日間「報恩講」を無事に勤めさせていただきました。
清岡隆文先生から尊いご法話を頂戴いたしました。ここに『御伝鈔』下巻 第六段の親鸞聖人ご往生の場面をお話いただきましたのでご紹介いたします。

『御伝鈔』 下巻 第六段

聖人(親鸞)弘長(こうちょう)二歳(にさい) 壬(みずのえ)戌(いぬ) 仲冬(ちゅうとう)下旬(げじゅん)の候より、
いささか不例(ふれい)の気(き)まします。それよりこのかた、
口に世事(せいじ)をまじへず、ただ仏恩(ぶっとん)のふかきことをのぶ。
声に余言(よごん)をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。
しかうしておなじき第八日 午時(うまのとき) 頭北(ずほく)面西(めんさい)右脇(うきょう)に
臥(ふ)したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。
ときに頽齢(たいれい)九旬(きゅうしゅん)にみちたまふ。

(後略)

「弘長二歳」というのは西暦でいいますと1262年になります。今年は2007年ですので、今年は親鸞聖人亡くなられて745年になります。あと4年で親鸞聖人750回大遠忌法要です。西本願寺の前にも法要を知らせる高札という高い高い札が掲げられています。皆さんもぜひお参り下さい。
「仲冬」というのは、古来三ヶ月を以て一つの季節としています。春夏秋冬ですね。旧暦では1月は春なんです。だから年賀状に「初春のお慶びを申し上げます」と書くのです。1,2,3が春です。4,5,6が夏です。今の季節の実感とずれていますが、それでいきますと10月11月12月が冬ですから仲冬というのは11月になります。
「仲冬下旬の候より」下旬というのは昔も今も変わりません。1ケ月を10日ごとに区切りまして上旬、中旬、下旬ですから、11月20日前後からということです。
「いささか不例の気まします」不例というのは、ちょっと身体の調子を崩したというくらいです。いつもとちょっと違うという程度です。11月20日ごろから体調を崩されて床に付かれたのです。
そして、「しかうしておなじき第八日」ですから「仲冬下旬の第八日」すなわち11月28日の「午(うま)の時」これは干支(えと)で表された時間です。子・丑・寅と数えます。真夜中の12時から始まりまして2時間ごとに配置して十二支ですから24時間となります。「草木も眠る丑(うし)三つ時」という表現が良くされます。午前3時、一番眠い時間です。そうして当てはめていきますと「午の時」というのは昼の12時ということになります。この「午」を基準にしてそれよりも前を午前、それよりも後を午後といってるのです。

〇 ですから1262年11月28日のお昼ごろ、横向きに寝たお姿でお亡くなりになられたのです。それを「頭北面西右脇に臥したまいて」という表現で今に伝えられております。これはお釈迦様がお亡くなりになられた涅槃像のお姿がそうでありました。頭を北においてお顔を西に向けましたら当然右脇が下になる形で横になられた姿です。

○私はそこで思うのです。お釈迦様は八万(はちまん)四千(しせん)の法門といって沢山の教えを説かれ、お経を残されました。それからいろんな宗派が生まれていきました。しかし、そこで最後の姿がこの姿で表現されているということは、やっぱりお釈迦様も最後は阿弥陀さまのお浄土に行かれたと思います。顔を西に向けておられるということは、『阿弥陀経』に「西方十万億土を超えたところに国土あり名づけて極楽という。」とお説き下さっています。その西のかなた、お浄土に思いをかけながら究極はお釈迦様も阿弥陀さまの世界に行き着いてくださった。それが浄土真宗で頂く立場であると思うのです。
だいたい人間は進む方向に顔を向けるのです。顔は前を向いて後に進んだら何かにぶつかって危ないですね。

〇 ところで、親鸞聖人は20日ごろから体調を崩されて床に付かれ、28日のお昼ごろにご往生されるまでの間どうされていたのかということが問題です。またそこのところが大事なところです。 「それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。」。更に続けて、「声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。」。こういうふうに書いてあります。世事というのは世間事ということですね。ですから床に付かれてからご往生されるまでの約1週間は余計なことは何もおっしゃらない。
「ただ仏恩のふかきことをのぶ。」。すなわち「もつぱら称名たゆることなし。」。つまり、み名を称えるということです。そしてそれは「つひに念仏の息たえをはりぬ。」とこう結ばれております。結局はお念仏ばかりであったということです。

○そこで私はこの「念仏の息」ということに注目したいのです。息・呼吸を意識して数えている人は少ないのではないでしょうか。皆さんも力を入れて息を吸ったり吐いたりはしてないでしょう?だからここには力が入っていないのです。力というのは、たくらみ、計らいです。「今からお浄土に行きたいのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」、「どうぞお助け下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」ではないのです。これは力が入っているのです。私の計らいが入っているお念仏なんです。息ですから、何の力(りき)みも無いのです。吐く息が南無阿弥陀仏。吸う息が南無阿弥陀仏。わたくしの人生は、山あり谷ありでありましたが、悔いなく生きさせていただきました。他人がどのようにご覧になろうとも私の人生は素晴らしい人生でありました。そういう感激と感動とそしてお礼をもって南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と人生を終えていかれました。

〇 今、寿命がどんどん延びていますが、何のために延ばしていただいているのだろうか?と考えましたら、それは、お念仏させていただき、仏恩のふかきことを聴聞させていただくためのいのちであるといただきたいと思います。悪口言ったり、陰口言ったりするために永らえさせていただいた命ではないのです。
むしろこれから導かれていく世界のこと、そして、そのおはたらきを心ゆくまで讃えさせていただくということが、最後に残された力で私どもがさせていただくことではないでしょうか。

2007年10月01日 法話
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