迷悟染浄の因縁

仏教の特色 迷悟染浄の因縁

8月20日定例法座挨拶より  住職  島田 和麿

「聴聞の意義」
み教えにあわせていただく集いがあるということ、お聴聞させていただくという尊いご縁に恵まれているということをお互いに慶ばせていただきたいと思います。
この尊いみ教えにであうことができなっかたならば、ちょうど手綱を引き放れた牛のようです。①どこに向えばいいのか?②どこによりどころがあるのか?③自分がどこにいるのか?わからぬまま生涯を送ってしまいそうです。
み教えというのは、自己の人生の方針、目的を明らかにして下さいます。仏さまの世界を目指せ。いのちの中心を、心の中心を仏法に持てということを教えられまして、生涯を歩んでいくわけでございまして、どこへ行くかわからないということを迷いといいます。仏教は迷いを転じて、悟りを開くという教えであります。

「迷悟染浄(めいごぜんじょう)の因縁(因果)」
「淨教寺時報」第33号(最新号)10頁に「病床の友へ」という瑞剱先生の二枚のハガキを載せております。仏教の特色は迷悟染浄の因縁、これが大きな仏教の特色でございます。他の宗教と違うところは迷悟染浄の因縁を明らかにしているかどうかということであるということを強調して説かれておりますのでよくお読みいただきたいと思います。
何が迷いであるか、悟りであるか?実は私たち皆迷っているのです。迷っていることも知らないでいるほどの迷いの深い私である。こういうところを考えていくわけでございます。迷いと悟り、そして染というのは、染まるということです。これは、よい行いをしても、善悪の問題、善い事をすればいいじゃないか、悪い事をすれば悪であると、善悪のことを二つに分けて西洋ではそれでいいと簡単に考えているわけです。しかし仏教では我執の混ざった善は、雑毒の善といいます。善い行いであっても恩にきせたり、高あがりするとその行いは悪であると、「染(ぜん)」我(が)からでている善は悪というわけです。善か悪か。迷いか悟りか、これをはっきりさせていくということが仏教であるということが強調されてますのでどうぞそこをしっかりとお読み下さい。
また8月のカレンダーが因果ということを出されて「こころせよ 因果はめぐる 火の車 業道自然 あなおそろしや」と書かれております。

仏教は迷悟染浄の因縁そして因果ということを中心にずっと人生を見つめていくというみ教えでございます。結局、染浄の差も、善悪の問題も無我であるか、我が入っているかということで善い行いも我が入っていることによって、善はもう悪の中に入ってしまうということです。そういうふうに清浄なるものと、汚れているものとを仏教は選別します。そして因果は恐ろしいということが仏教の出発点になります。
こういうことは、孔子の教えにもありません。キリスト教、イスラム教でも扱っておりません。
私たちは本当に仏教、大科学であり、真理であり、哲学である、そういう宗教に合わせていただいて、もったいない、ありがたいことだと思うのであります。またその中でも、浄土真宗に遇わせていただいたということを心から慶ばせていただいたことでございます。

「仏前婚約式」
8月18日には結婚される若い方の仏前での婚約式がございました。娘さんを九州へお嫁に出されます。相手の方も浄土真宗の方のようですが、結婚式は宗教色のない人前結婚式を来春なさいます。しかしこちらの両親の強い希望でと、17日に結納を持って九州から奈良に来られるということですので、せめて婚約の式だけでも仏前でということで、この本堂で一昨日、18日仏前婚約式をなさいました。娘さんのご両親に敬意を表します。

「信心の喜び」
その前々日8月16日でしたが、この本堂でも熱心にお聴聞でございました方が心不全で急逝されました。目を輝かして聞いておられた方でございますが、83歳。その方は、その日の夕食までおいしく頂かれ、そのあと便箋に浄土真宗の喜びを書かれまして、そして最後に「絶対矛盾の自己同一」という字を書かれました。お葬式には法友の方もお参りして下さいました。皆さんも今日の言葉として「絶対矛盾の自己同一」をお持ち帰り下さい。
「絶対矛盾の自己同一」とは、西田哲学、西田幾多郎先生の最後の言葉でございます。西田先生は宇宙の真理をそのようにおっしゃったのでございますけれども、浄土真宗のご信心、二種深信をあらわした言葉でもございます。絶対矛盾。信心の上から言えば、絶対に助からない、絶対に救われがたいものが絶対に助かるということが一信心に同一しているという、そういう二種深信の極髄をこの方はちゃんと頂戴しておられた。このお方はきっとただちにお浄土にお生まれになり私たちをみそなわして下さっていると思います。
下にその一部を掲載いたします。

愚者のうた   I・K
おろか者はうたう 歎異抄の英訳を見つけました 親らんさまならみなよみたい 危うく斬殺されるところ 越後にご流刑になっただけでもいたましい 念佛に来ず人間愛を感じないのだ 世間の人は
(中  略)
おろか者はうたう 曇らんさま・親らんさまが第十八願に 抑止(おくし)文をつけたのは のぞかれる存在は当然罪悪深重の私だったから 善導・法然さまは五逆罪・謗法罪(ほうぼうざい)を 書き加えなかったのは はずされるにちがいない私こそ あみださまのおめあてで 南無阿弥陀佛におさめとられるから
賢者の西田幾多郎はうたう ー絶対矛盾の自己同一ー どうしても堕ちる(ものが)どうしても助かる
(注)抑止文・・・「唯だ五逆罪と正法を誹謗するものを(救いから)除く」という十八願のおことば。

「闡提(せんだい)〔無宗教心〕が最も重い罪」
仏教では「悪」について十悪・五逆・謗法・闡提とあります。
十悪とは、①殺生 ②偸盗(ぬすみ) ③邪淫 ④妄語(偽り) ⑤悪口 ⑥両舌(二枚舌) ⑦綺語(ざれごと) ⑧貪欲 ⑨瞋恚 ⑩愚痴 であり
五逆罪とは、①父を殺し ②母を殺し ③羅漢を殺し ④仏身より血を出す ⑤和合僧を破る
謗法とは、仏教、仏法、教団を謗ること
闡提とは、生死を欲して出離を求めない者。善根を断じた人。ニヒリストをさす。と言われています。
上記のように仏教ではつぶさに人の道が説かれてあります。しかし、どうして「無宗教心」(闡提)が最も重い罪なのか?一考を要するところです。

2003年09月01日 法話
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