盂蘭盆経

盂蘭盆経(うらぼんきょう)

副住職 島田 春樹

秋田ぶきとおふくろさん
森 進一さんの名曲「おふくろさん」 口ずさみますと涙がこぼれてきます。いいうたです。
おふくろさんよ おふくろさん 空を見上げりゃ 空にある 雨の降る日は 傘になり お前もいつかは 世の中の 傘になれよと 教えてくれた あなたの あなたの真実 忘れはしない
今年は7月18日(金)が小学校の終業式。翌19日(土)に夏休み仏教子ども会を開催し、7月20日(日)から毎朝6時半ラジオ体操を寺族、近所の子供たちと境内で始めています。そこに来られるK・Mさんが、俳句のお友達が淨教寺の境内の桜の木の下にある秋田ぶきを見て懐かしそうに「小さい時、雨が降ったらこれを傘代わりにして家に帰りました。」という話を聞かれて、西本願寺の、平成大修理瓦懇志ポスターのなかで武野本願寺総長が「親鸞様の傘となり」と詠むまれた歌を思い出したり、最初の「おふくろさん」の歌詞を思い出しておりました。と、お話して下さいました。
その話を聞いて、両親の愛情の深さをしみじみと思い出させていただいたことでした。また、阿弥陀様のお慈悲の傘の中で日暮らしさせていただいていることをありがたく感謝させていただくばかりでございました。

盂蘭盆経と浄土真宗
「おふくろさん」で思い出しますのが、「盂蘭盆経」の目連尊者のお母様のことです。盂蘭(うらん)とは、倒懸(とうけん)の意味で、倒(さか)さに懸(つる)し上げられることで、苦しみの大きなことをあらわします。盆とは器のことで、救いを意味します。ですから、盂蘭盆とは、大きな苦しみを持ったものが救われることを内容としたお経という意味です。
釈迦十大弟子の中、神通力第一の目連尊者は、お母様が餓鬼の世界に落ちて苦しんでおられる姿を見て、何とか救い取りたいとお釈迦様にご相談されたところ、安居(あんご、雨季の時期の僧侶の勉強会)の終えた僧侶に供養をささげることによってその功徳によりお母様は救われるであろうとおっしゃいました。そうすることによって、お母様は餓鬼の世界から救われ仏の浄土へと生まれられたのです。目連尊者が踊りあがらんばかりに喜ばれた姿が盆踊りとなり、各宗派で迎え火、送り火、精霊棚などのいろいろな形のお盆の法要の迎え方が出来てきました。
しかし、浄土真宗ではこれらの作法はなく、お仏壇を、平素のお飾り(お仏飯、お餅、お菓子、くだもの、お花等)よりもにぎやかに飾っていただき、素麺を茹でずに生のまま10束ほどを盛ってお供えしていただきます。

親鸞聖人の盂蘭盆経の見方
親鸞聖人は、「盂蘭盆経」の中の目連尊者のお母さまが何故、餓鬼の世界に落ちて苦しまなければならなかったか?ということをよくよく考え、聞き開いていくことが大切だと教えて下さっているのではないでしょうか?「おふくろさん」の歌にもあるように「お前もいつかは 世の中の 傘になれよ」と教えて、人々を導き、救い取っていく道を歩むよう望まれた立派なお母様であったはずです。しかし、そのお母様が餓鬼道へ落ちられた。これはいったいどういうことでしょうか?
目連尊者のお母様の姿は、私の姿ではなかったか?私にそのことを知らしめんがためにこのお経をお釈迦様は残してくださったのではないか?そのように受け止められたのではないかと考えます。

盂蘭盆経の本当の意味
すなわち、餓鬼の世界とは、有っても有ってもまだ足りないと不平不満ばかりを言って、むさぼりの姿をあらわにしていたものが落ちる世界といわれております。わが子のためであるならば、他人を蹴散らし、人のものを奪い取ってでもわが子に与えたいという心。目連尊者をまた、わが子を立派な子に育てるためであるならば、何を差し置いてでもこの子のためにという独りよがりになってしまい、周りのことが目に入らなくなってしまいがちな危険性があるということを示しているのでしょう。
人間である以上自分の子供と他人の子供を区別することしかできない悲しさ、業の深さというものがあります。それが仏教の教えの中では大きな罪となり、餓鬼の世界へと落ちていく原因となるのです。

聞法第一の日暮し
その罪多き者こそが、何を隠そうこの私であると気づき懺悔するところに宗教との出会い、聞法の始まりがあるのです。
そこをお見透しの上で、罪業深重の罪深き凡夫でも、我を一心に頼まん衆生を必ず救うとお誓いくださった阿弥陀様のお慈悲に出会うことを慶ばせて頂くのであります。浄土真宗では、第二十一代明如上人(大谷光尊さま)の時から、盂蘭盆会を「歓喜会」と呼び、仏恩をよろこばせていただく聴聞の大切なご縁としております。

大慈悲の阿弥陀如来
蓮如上人の『御文章』第五帖十三通には「それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること更にその極まりなきものなり」と、誰もが保ちやすい、称えやすい六文字のお名号の功徳の大きさを教えて下さっています。
そのやるせない、「何としてでも全てのものを必ず救うという、そのためであるならば、たとえどんな、苦難の中であろうとも、忍んでついに悔いることなし」と働きづめに働いてくださっている心を大慈悲心と申すのであります。
この尊いお心をあらわしたものが、各家庭のお仏壇の正面の阿弥陀如来さまのご絵像であり、お木像であり、六字のお名号であります。

浄土真宗の盂蘭盆会
ご先祖のご苦労を偲びつつ、いま私がこうやってお経(お釈迦様の教え)に出遇えたことをよろこび、今一層、子や孫とまた縁ある方々とともに、お聴聞に励ませていただこうと、この仏縁を大事にさせていただき、いまの自分を見つめ直させていただく機縁がこのお盆の真宗門徒としての迎え方であります。
ぜひ、毎月20日午後2時からの定例法座には、時間を作ってご参詣下さい。

2003年08月01日 法話
pagetop