真実の教は「大無量寿経」

法のたより〔夫れ真実の教をあらわさば、則ち「大無量寿経」是れなり〕

平成15年5月20日(火)午後2時
永代経法要 住職 島田 和麿 挨拶より

本日は、永代経法要に当り「新制 仏説無量寿経(大無量寿経)」「大経」(だいきょう)を上げさせていただきました。これは、今よりはるかに昔、2500年前にお生まれになられましたお釈迦様の直説でございます。たくさんのお経の中で、これこそ釈尊の出世本懐であると、仏教の最頂点のお経であると、親鸞聖人がお定めになられました「大無量寿経」をお勤めいたしました。明日21日は「仏説観無量寿経」「観経」(かんぎょう)、22日は「仏説阿弥陀経」(あみだきょう)のお勤めをさせていただき、3日間で三部経のおつとめをいたします。
「大経」の最初の第一節は常随昵近(じょうずいじっきん)、多聞第一の阿難尊者が釈尊のご尊顔を拝し、「はっ」と、びっくりされまして「今日のお釈迦様は違います。光顔巍巍(こうげんぎぎ)とましましておられます。いよいよお釈迦様の本当におっしゃりたいことを申されるんでございましょうか?」という質問を阿難尊者(あなんそんじゃ)がされたわけでございます。お釈迦様は、ニコッと微笑まれまして「よい問いかけをしてくれた。まさにその通りである。」といい、この「大経」をお説きになり、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成りたもうた、その道ゆきをお説きになったのでございます。そのことが、五徳示現(ごとくじげん)ということで、どのお経にもないところが出ております。そして、次に法蔵菩薩が四十八の願を起こされました。その四十八願がつぶさに説かれております。
その後、「仏告阿難、其有衆生・・・」と、「成就文」(じょうじゅもん)と呼ばれる一段に入ります。そこで、「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜・・・」と、「あらゆる衆生よ。その名号=阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のみ名=を聞く人は、みんな仏のご念力で助かっていくよ。」と、いうことが書かれてあります。そこを親鸞聖人が発見されまして、これこそ仏教の精髄、万人が救済されていく教えの根本であるということから浄土真宗を開かれました。お師匠様の法然上人また中国の善導大師(ぜんどうだいし)はどちらかといいますと、十八願文に中心を置かれました。これも、中心となる要の願文ですが、親鸞聖人はその深意を本願成就文にあると読み取られ、それこそが釈尊の出世本懐(しゅっせほんがい)であると「願成就一実円満(がんじょうじゅいちじつえんまん)の真教真宗(しんきょうしんしゅう)これなり」と宣言され、浄土真宗の中心は本願成就文であると宣言せられました。この大切な浄土真宗の根本聖典である「大経」を本日おつとめさせていただきました。

〔日本にあって西洋にない言葉〕
世の中では、いろいろなことが次から次へと起こってきております。銀行の不良債権の問題、SARS(サーズ)(新型肺炎)の問題、イラクの戦争・戦後処理の問題等。しかし、そのようなことばかりに目を奪われていてはいけないのでありまして、静かに落ち着いて、人生そのもの、私そのものを確実に見つめていく時間をちゃんと持ってないと、周囲の状況に追われて、バタバタ過ごしているだけではいつまでたっても埒(らち)があかないということになってしまいまして、本当の喜びに恵まれるということはないのでございます。お経や仏典を英語や独逸語に翻訳されている先生方が、日本にあって、世界にない言葉がある。それを翻訳することが非常に難しいと話しておられました。それは「おかげさま」、「不思議なご縁で」というときの「ご縁」そして、「ご恩」という言葉です。これらの言葉は、西洋にはないのです。これらの言葉は、日本人がお釈迦様の教えから教わりました、非常に大きな宇宙観であり、私のない平和と喜びと感動が与えられる言葉ではないでしょうか?「私が頑張ってこうやっている」じゃなくて、「おかげさまで」というところには、本当に大自然の恩恵のおかげ、国のおかげ、人々のおかげ、家庭のおかげ、社会のおかげ、いろんなおかげによって生かされているという喜びがそこにございまして、私というものがそこに出てこないのでございます。「不思議なご縁で」というのも、何もかもそういうおかげによりご因縁が重なり合ってこうして遇わせていただくのも、本当に大変なご縁とご恩の中にあるのでございます。その精神の中からは、争いごとは出てこないのではないでしょうか?むしろ、本当にすこやかで、やすらぎの人間関係が広がっていくと思います。その心を私たち日本人がしっかりともう一度復活させて、子や孫に伝え、世界にも伝えていくという使命があるのではないでしょうか。そういうことをどうぞ皆様も、一度振り返っていただきまして、言葉の重さを感じ、自分のためだけではなくて、宇宙のためにこのみ教えが大事だということをご確認いただけましたら結構かと思います。
この永代経は、主に私どもの祖先のご恩徳を感謝するおつとめでございます。私も自分で選んで生まれてきたわけではございません。直接には父母のおかげ、それまでには無限の祖先がありまた、周辺の広さにおいても大変広い、いろいろなご恩によって、ここに生かされているということを深く感佩(かんぱい)させていただくのが、この永代経の法要でございます。2500年前に説かれたお経を今あげさせてもらい、み教えを聞くということはどういうことでございましょうか? はるばるインドから伝えられて、中国で漢訳されて、1300年前に日本に伝わって今聞かせていただいている。そこに、幸せの泉がコンコンと湧いているのです。大変な先人のご恩があるのではないでしょうか?「今私が喜んでいるのだ。」という、そういう世界ではないと思います。「おかげさまで」、「ご縁ですね」という、喜びと感謝をささげる場であります。お寺のためにお寺はあるのではなくて、私のためにお寺があり、教えがあるということをご確認いただきまして、お聴聞いただきたいと思います。

2003年06月01日 法話
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