源信和尚(げんしんかしょう)千回忌法要
西本願寺・阿弥陀堂にて2月14日(火)「源信和尚千回忌」が浄土真宗本願寺派と天台宗の合同で営まれました。
親鸞聖人が七高僧と尊ばれた第六祖に源信和尚(942-1016)がおられます。
源信和尚は、大和国葛城下郡當麻郷(奈良県香芝市)の當麻寺(たいまでら)近くでお生まれになりました。父は卜部(うらべ)正親(まさちか)、母は清原氏で極めて道心深く、お母さまおよび三人の妹はともに尼となられています。
源信和尚は幼名を千菊丸と言いました。幼少のころの逸話に、近所の友達と遊んでいる時に旅の托鉢の僧が鉢を小川で洗っていることに気付きました。そこで、千菊丸はそこの小川よりも少し離れたところの川の水の方がきれいですよと、教えてあげました。ところが旅の僧は「仏教では浄穢不二といって、きれいとかきたないとかに頓着しないからここで結構だ」と断りました。そのときに千菊丸は、「お坊さま、お言葉ですが、浄穢不二といってとらわれないのであれば、もともと洗わなくてもよいのではありませんか?」と問い返したそうです。その返事に旅の僧侶も返す言葉がなく、利発な子であると母に千菊丸の出家を勧めたそうです。
そうして比叡山に登り、慈恵(じえ)大師(だいし)良源(りょうげん)大僧正の弟子となり、13歳の時に得度して「源信」の名を与えられました。めきめき頭角を現し15歳にして時の村上天皇に『称讃浄土教』の講義をされました。いたく感動された天皇は源信和尚に多くのご褒美と「僧都」の位を贈りました。喜ばれた源信和尚は當麻の里にいる母もきっと喜んでくれるであろうと、そのご褒美を送りました。ところがそれが送り返されてきました。一首の歌と共に
「後の世を渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧となるぞ悲しき」
厳しいお歌です。「時の村上天皇や貴族に褒められたくらいで有頂天になってどうしますか。そんなためにあなたを出家させたのではありません。まだまだ仏さまの教えも知らず苦しみ悩む下々の人々がおられます。そんな人にこそ仏さまの救いの道を説いていただきたいと思っておりましたのに、世渡り上手な僧侶となるとは何と嘆かわしいことでありましょう。夢のような儚い世にあって、一日も早く後生の一大事を解決して、すべての人にその道を伝え、仏さまに褒められるような尊い僧侶にならなければ、山に登った甲斐はありません。」との母の無言の心の声が源信和尚の胸に突き刺さったことでしょう。
その後は、比叡山の横川の恵心院に住んで、今以上の精進を重ね念仏(ねんぶつ)三昧(ざんまい)の日々を過ごされました。
そして、44歳の時に『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』三巻を完成されました。その序文には、
「そもそも、 極楽(ごくらく)に往生するための教行は、 濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものである。 僧も俗も、 身分の高いものも低いものも、 誰かこれに従わぬものがあろうか。(中略)私のような愚かなものは、 どうして進んで修行することができようか。こういうわけであるから、 念仏の一門に依って、 少しばかり経論の肝要な文を集めた。 これをひもといて、 念仏の行法を修めると、 覚り易く行じ易いことであろう。」と示され、浄土の教えに帰入することをすすめられました。
『往生要集』(上・中・下)の特徴は、浄土への往生の道行きを示すだけでなく、何故浄土往生の道を歩まなければならないかを分からせるために、まず始めの上巻で厭離(おんり)穢土(えど)(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を厭い離れ)欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)(極楽浄土に生れる十楽を説き)そのための念仏修行の方法論を中巻・下巻で示されている点です。
これは、14世紀初頭に書かれたダンテの「神曲」にも影響を与えたのではないかと思うほど、日本の誇る宗教文学作品であると同時に、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学・思想にも大きな影響を与えました。そして、この『往生要集』が中国(その当時は大宋国)に遣宋(永延元年987)されたところ、天台山国清寺では往生極楽の因縁を示す尊き書であると慶ばれ、源信和尚を「南無日本教主源信大師」と恭敬礼拝したと伝えています。すなわち日本に出られたお釈迦さまであると尊ばれたということです。
ぜひ、みなさまも「源信和尚千回忌(没後千年)」をご縁に、手に取って読んでみられてはいかがでしょうか。岩波文庫、講談社学術文庫から文庫本が出版されています。