鬼は内 福は外

表題を見て、間違っているのではと思っている方が大半だと思います。「鬼は外 福は内」が一般的ですよね。
節分の「豆まき」の時に、鬼に豆を投げつけて退散させる光景がテレビなどによく映し出されますね。
節分とは、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことで「季節を分ける」という意味です。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を節分というようになりました。この季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための行事が「豆まき」に代表される行事です。豆は「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いから、一般的に「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いたり、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べて厄除けを行う光景が見られます。

 

阿弥陀さまから見た、「鬼は内、福は外」

浄土真宗では、上記のような意味での「豆まき」はしませんし、「鬼は外、福は内」という掛け声ではなく、むしろ阿弥陀さまのみ教えをいただくものは、表題の「鬼は内、福は外」という阿弥陀さまのお慈悲を大事に味わせていただくことができるようになります。どういうことかと言いますと、鬼とは邪気のことといわれますが仏教では三毒の煩悩に代表されます。すなわち1欲、2怒り、3愚痴です。親鸞聖人はお手紙(一念多念証文)の中で、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえぬなり」と語られています。
他人の幸せを心から喜ぶことができず、相手を恨んだり、妬んだり、腹がたったり、卑下してみたり、それが、凡夫である浅ましい私の本当の姿であると、親鸞聖人は仰るのです。そんな私の偽らざる姿を鬼と表現したならば、その鬼の姿そのものを抱きとって捨てずと仰って下さるのが阿弥陀さまです。「鬼は内」とは、阿弥陀さまが常に煩悩に染まる凡夫の私を抱き取ってくださっている心のあらわれです。
そして「福は外」とは、その阿弥陀さまの慈悲のあたたかいこころを凡夫である私に差し向けて下さるこころがこの「福は外」の意味するところです。

 

 私から見た、「鬼は内、福も内」

お念仏を喜ばれた妙好人の浅原才市さんのエピソードがあります。それは、才市さんの肖像画を絵師の方が描いて持ってこられた時のことです。家族や近所のものは「大変良く描けている」と満足げによろこんでいるのに、当の才市さんは首をかしげているそうです。そこで聞いてみると「一つ足らんものがあるので、付け加えて描いてもらいたい。」と願われたので、何かと問うと「頭に、角を描いてくれんか。あんたらには見えんかもしれんが、わしの頭には角が生えとるんじゃ。」といわれたそうです。
阿弥陀さまがご覧になっている姿を、才市さんは角の生えた鬼の姿で表したかったのでしょう。
才市さんが阿弥陀さまのお慈悲のこころをいただいていく中で、お慈悲に照らされる自分の姿は何とあさましいことかと、慈悲の光に照らし出されたのでしょう。一皮むけば、本当の姿は鬼。そして、手柄は自分のものにしたがる私。しかし、その鬼を助けるはたらきが、阿弥陀さまのご本願。どうにもこうにもならぬ鬼のこの私を救わねばと、南無阿弥陀仏となってはたらいて下さる。あさましい鬼の私が、阿弥陀さまの救いの目当てであったとは何とありがたいことであったか。
阿弥陀さまのおこころをいただきながらお念仏申し、日々の生活を正直に生きた才市さんの姿こそが、「鬼は内、福も内」の阿弥陀さまに照らし出された偽りなき私の姿でした。
稲垣瑞剱先生のうたに次のものがあります。
「幸福来らば敵と思え 苦しみきたらば惰眠を覚ます 他力大行の催促なりと思うべし」というものです。ともに味わいたいお言葉です。

2017年02月01日 法話
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