親鸞聖人の三哉(さんかな・さんさい)

「それがし 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と云々。
これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。
本願寺第三世・覚如上人 『改邪抄』より

親鸞聖人のご遺言と言われているものです。

「今生での私の命が終えたなら、私の体は賀茂川の魚に与えてほしい」という意味です。覚如上人はその心を、肉体にとらわれるのではなく、あくまでも大事なことは信心獲得であると受け止めておられます。

お釈迦さまのお言葉の中には、「人は生まれによって尊いのではない。行いによって尊くもなり卑しくもなるのである。」とあります。
せっかく生まれた人間として、どのような道を歩いていくのか。それが大事なことであると。

先日亡くなられたアンパンマンの作者である、やなせたかしさんの作詞されたアンパンマンのマーチには

そうだ うれしいんだ  生きるよろこび  たとえ 胸の傷がいたんでも
何のために生まれて 何をして生きるのか  答えられないなんて そんなのはいやだ!
今を生きることで 熱いこころ燃える  だから君はいくんだ ほほえんで

とあります。「何のために生まれて 何をして生きるのか。答えられないなんて そんなのはいやだ!」みなさまは答えられるでしょうか?親子で真剣に考えて、話し合うことは大切なことでしょう。
答えをお持ちの方々もそれぞれの道を日々精進しておられることでしょう。

宗祖親鸞聖人は、ご本典「教行信証」の中で、「三哉(さんさい・さんかな)」とよばれるお言葉を残しておられます。
親鸞聖人にとっての真実(誠なる哉)、慶び(慶ばしい哉)、悲しみ(悲しき哉)を表明されるお言葉です。
親鸞聖人が真実・まこと(南無阿弥陀仏)に出遇った中からの、本当の真実とは何か。本当の慶びとは何か。本当の悲しみとは何かを指し示してくださる尊いお言葉です。 その中からこの度は、「誠なる哉」ということについて考えてみたいと思います。

【誠哉】
誠(まこと)なるかな、摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の真言(しんごん)、超世(ちょうせ)希有(けう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。

『教行信証 総序』

(意味:如来の本願の何とまことであることか。摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えて、たぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。)

小さい子供を叱るとき、ついつい「そんなに悪いことしていたら、まんまんちゃんバチあてはるで。」と、叱ることがないでしょうか。また子供の時に叱られた経験はないでしょうか?

何気なく言っている言葉、何気なく言い聞かされている言葉ですが、「バチあてはる」という言葉は、「罰を当てられる、何か恐ろしく怖い災難が降りかかる」という「まんまんちゃん・み仏さま」を恐ろしく怖いものとしてイメージしてしまう危険性があります。
また実際、皆さんもそんなイメージで捉えているのではないでしょうか。

しかし、摂取不捨とは、「摂」という文字には「ひとたび抱きとったならばもう捨てることありません。相手がどんなに逃げていこうとも、追いかけて言って後ろから抱きかかえて離すことがありません。」と言う意味があると親鸞聖人は解釈されています。

「こんなにもあなたのことを心配している仏(阿弥陀さま)がいるのに、どうして気づいてくれないのか?どうかあなたのことを常に心配して、必ず護り救うと念じ続けているこの仏に気づいてくれよ!」と涙を流して「南無阿弥陀仏」の名前となって呼び続けてくださるのが阿弥陀如来様です。

このこころを「摂取不捨の真言、超世希有の正法」とお示しくださいました。
この教えを聞き開いていくことこそが、わたしたちの日々の営みであると教えてくださいます。

2013年12月01日 法話
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