一生懸命一秒

「はじめまして」
この1秒ほどの短い言葉に
一生のときめきを感じることがある
「ありがとう」
この1秒ほどの言葉に
人の優しさを知ることがある
「がんばって」
この1秒ほどの言葉で
勇気がよみがえってくることがある
「おめでとう」
この1秒ほどの言葉で
幸せにあふれることがある
「ごめんなさい」
この1秒ほどの言葉に
人の弱さを見ることがある
「さようなら」
この1秒ほどの短い言葉が
一生の別れになる時がある
1秒に喜び、1秒に泣く
一生懸命、1秒

上の詩はセイコーのCMで流されたものです。

ある小学校でのお話しです。
先生が、子どもたちに「1秒でどんな事が出来るかな?」と質問したそうです。
子どもたちは、「一秒みたいな短い時間では何もできないよ!」と口々に言ったそうです。
そこで先生は、「一秒間でも出来ることはあります。」と答えました。
たとえば、ハチドリという鳥は、一秒間に60回から80回羽ばたいて、空中に静止して、花の蜜を吸うそうです。
また、光は一秒間に地球を7周半します。秒速30万㎞です。
「でもこんなことは、みんなに出来ないけど出来ることがあると思うよ!みんなで考えてみよう。」と問いかけました。
そこで子どもたちは、いろいろ話し合って出した答えが「あいさつ」ということでした。
「おはよう」「さよなら」これだったら一秒で言えます。
先生も感心して、「みんなのうれしかった言葉、悲しかった言葉を考えてみてください。」と提案しました。
その中で、一番多かったうれしかった言葉は「ありがとう」といってもらった時、悲しかった言葉は「来るな」と仲間外れにされた時、でした。
本当に、ひとことの言葉で、人は勇気づけられ、励まされることがあります。しかし、その反対にひとことの言葉で、落ち込み、涙し、裏切られることがあります。
中国のことわざに、「どんなに冷めたご飯とみそ汁でも食べる事が出来るが、冷たい言葉とまなざしには耐える事が出来ない。」とあるそうです。
心あたたまる、やさしさにあふれた、元気づけられる言葉を心がけたいものです。

 

*南無阿弥陀仏の意味

「南無阿弥陀仏」のお念仏もわずか一秒ほどで称える事が出来ますが、いったいどういう意味があるのでしょう?
親鸞聖人は善導大師の、
「南無というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願回向の意味でもある。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である(即是其行)。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。」という御文をうけて、『教行信証』の「行の巻」に「六字釈」をほどこされて、
「南無という言葉は、帰命ということである。(中略)このようなわけで、「帰命」とは、わたしを招き、呼び続けておられる如来の本願の仰せである(帰命とは、本願招喚の勅命なり。)。(後略)」と、御解釈くださいます。

すなわち南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来の私たちへの呼びかけであるという意味です。阿弥陀如来の私たちへのはたらきかけは、呼びかけというすがたをとってあらわれるということです。
どのように呼びかけて下さるのでしょうか?
善導大師は二河白道の譬えで、三定死(道を進んでも死、退いても死、とどまっても死)という危機的状況にある旅人に、西の岸の上にいる人が、「なんじ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんじを護らん。」と、呼びかけられると説かれています。この西の岸の上にいる人とは阿弥陀如来のことで、この呼びかけを阿弥陀如来のご本願のおこころであるとお示しになっておられます。すなわち、「どうぞおねがいだから、わたしにあなたを助けさせておくれ。」という阿弥陀如来のおすくいのはたらきにすべてをおまかせするということです。
このおこころが、そのまま呼びかけとなって私にはたらきかけているといるのが本願招喚の勅命ということです。

私の方から、「どうぞお助け下さい!」と、阿弥陀さまに一生懸命お願いするのでなく、逆に阿弥陀如来さまの方から一生懸命一秒どころでない、間断なく絶えず常に「我にまかせよ、必ず救う。どうぞおねがいだから、わたしにあなたを助けさせておくれ。」と、呼びづめに呼び続けてくださっているのが南無阿弥陀仏の本当のこころであると親鸞聖人はお示しくださいます。

2012年01月01日 法話
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