親鸞聖人のご恩を偲ぶ「報恩講」をお迎えし、改めて聖人のご生涯をたどり、自らの人生と照らし合わせて阿弥陀如来の本願力に出遇わせていただいたことを喜ばせていただきたいと思います。
時代は、平安末期から鎌倉時代にかけての、貴族から武士へと台頭していく変動期であり、大地震や水害等による災害が頻発し、飢饉で京の町には餓死者があふれるという惨憺たる状況でした。
1173年(承安3年)
京都、醍醐寺の南、日野の法界寺があるそばに誕生院があります。そこで父・日野有範公、母・吉光女の長男としてお生まれになられました。
1181年(9歳)
お家の事情で青蓮院にて天台座主・慈円大僧正を戒師として出家得度されました。そのときに詠まれたうたが、無常を身に引き寄せた素晴らしいものです。
明日ありと 思う心のあだ桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは
「生死出ずべき道」を求めて、比叡山の堂僧として常行三昧堂での不断念仏等のご修行に専念されました。しかし、なかなか道は開けず、比叡の山での一層厳しいご修行を積まれますが、
定水(じょうすい)を凝(こ)らすといえども、識浪(しきろう)しきりに動き、心(しん)月(げつ)を観(かん)ずといえども 妄(もう)雲(うん)なほ覆(おお)う
と「嘆徳文」にも記されますように、池の水が風に波立つように、雲が美しい月を隠すように、身を煩わし、心を悩ます煩悩は片時も静まることのないご自身を深く慚愧されていかれました。
1201年(29歳)
自らの道をもう一度見つめ直すため、京都の六角堂に百日間参籠することを決意され、95日目の明け方、救世観音(聖徳太子)の夢告を受けられました。
行者(ぎょうじゃ)宿報(しゅくほう)設女犯(せつにょぼん) 我成(がじょう)玉女(ぎょくにょ)身被犯(しんぴぼん) 一生之間(いっしょうしけん)能(のう)荘厳(しょうごん) 臨終(りんじゅう)引導生(いんどうしょう)極楽(ごくらく)
(修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるとき導いて極楽に生まれさせましょう。)
この趣旨を宣説して一切群生に聞かしめるべし、と。そして、さらに百日間、法然聖人のもとへ通い続けられ「専修念仏の教え」に触れ、入門を決意されました。聖人は研鑽をつみ、法然聖人に高く評価されていきました。
法然聖人門下時代のエピソード
① 信行(しんぎょう)両座(りょうざ):
往生の正因は信心か念仏かとの問いに、門弟が信の座・行の座に分かれて座り、法然聖人より判定を受けることを提案された。(結果は、信心一つにて往生)
② 信心諍論(しんじんじょうろん):
法然聖人の信心も、親鸞の信心も一つであると主張して、兄弟子より叱責され、法然聖人のご裁断を頂戴した。(結果は、同一のものである)
1207年(35歳)
承元(じょうげん)の法難(ほうなん)と呼ばれる、念仏弾圧事件により、法然聖人は讃岐へ、親鸞聖人は越後へ流罪、他6名の門弟も流罪。住蓮・安楽など4名が死罪という大変厳しい法難がありました。それは門弟の他宗批判や教えの曲解(造悪無碍)などの問題が複雑に重なった結果でしたが、親鸞聖人は朝廷の「主(しゅ)上臣下(じょうしんか)、法に背き義に違(い)し、怒りを成し怨みを結ぶ・・」という間違った判断に対して、不当な処分であると嘆いておられます。
1211年(39歳)
赦免後、法然聖人の「もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化せん」とのお言葉を、「これなほ師教の恩致なり」と心に刻まれ、念仏の教えの教化に専念していかれました。
1212年(40歳)
法然聖人ご往生
1214年(42歳)
関東へ移住 途中 浄土三部経千回読誦発願されるも中止
茨城県笠間市 筑波山の麓 稲田の草庵 拠点に20年間関東教化
1224年(52歳)
このころから『教行信証』の執筆
1235年(63歳)
京都へ帰京 著作に専念される
1256年(84歳)
長男 善鸞を義絶 精力的に著作(特に83歳から86歳の著作は数多い)
1257年(85歳)
『一念多念証文』の
凡夫というは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず、消えず、絶えずと水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分ようようづつあゆみゆけば、無礙光仏のひかりの御こころにおさめとりたまふがゆへに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
とのお言葉、そして
1260年(88歳)
『正像末和讃』「自然法爾章」の最後の
是非(ぜひ)しらず 邪正もわかぬ このみなり
小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
とのお言葉は、ありがたく胸にひびく親鸞聖人の救いのよろこびを赤裸々に披瀝されたものでありましょう。
1263年(90歳)
ご往生 (新暦1月16日)
口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。・・・頭北面西右脇に臥したまひて、ついに念仏の息 絶えをわりぬ
と、報恩感謝のお念仏の中に90年間のご生涯を全うじていかれました。
弘(こう)長(ちょう)二歳(さい)、壬(みずのえ)戌(いぬ)、仲冬(ちゅうとう)下旬(げじゅん)第八日、午(うま)時(のとき)(旧暦1262年11月28日正午ごろ)のことでありました。