「善鸞(ぜんらん)事件」とは、親鸞聖人の子である善鸞さまが、父の信仰に背く教えを関東で説き、さらには親鸞聖人の信頼する関東の弟子たちと争い、最後は鎌倉幕府にその弟子たちを訴えて混乱を引き起こし、とうとう親鸞聖人はわが子善鸞さまを勘当したという事件です。親鸞聖人84歳の時の出来事ですから善鸞さまは54歳頃ということになります。
この事件について今井雅晴先生は違う見方を『親鸞と如信』の中で示しておられます。
以下にそれをまとめてみます。
善鸞さまは、父親鸞聖人帰京の後、共に京都で過ごされました。そのころ、聖人にとっての初孫である善鸞さまの長男・如(にょ)信(しん)上人がお生まれになっておられます。(親鸞聖人62歳頃・善鸞さま32歳頃)
そんな中、常に親鸞聖人の教えを聞いておられ、信頼されていた善鸞さまを関東に送られたわけです。その善鸞さまが関東の門弟たちと激しく対立したというのは一体どういうことでしょうか?
関東での信仰の問題が表面化したのは親鸞聖人が京都へ帰られてから20年程後、80歳を過ぎた頃と思われます。そこで自分の代理として人間的にも信仰上も信頼できる善鸞さまを関東に送られたと思われます。
親鸞聖人が京都へ帰られてから関東では門徒が集まって行きました。その中でとくに有力な門徒集団が
①横(よこ)曽根(そね)門徒(性(しょう)信(しん)を指導者とし、報恩寺がそのゆかりとなります。)
②高田門徒(指導者を真仏(しんぶつ)から顕(けん)智(ち)として中心の道場を専修寺(せんじゅじ)として、現在は三重県を本山、栃木県を本寺としています。)
③鹿島門徒(指導者を順信とし、後に無量寿寺が中心となる。)
です。このような関東の門弟たちが聖人の信仰を正しく受け継いでいると思われてきましたが、どうもそういうことではなかったのではないか、と今井先生は指摘されます。
たとえば、横曽根の性信は真言宗の影が見え隠れし、呪術を必ずしも否定していなかったようです。また、鹿島の順信は鹿島神宮を中心とする神祇信仰の中で親鸞聖人の教えを融合させていたに違いないと見ておられます。
そのような中、善鸞さまはどのように親鸞聖人の教えを説いたらよいかを懸命に考えられたのではないでしょうか?その結果やがて外から見ると親鸞聖人の教えと少しずつ違ってしまったようです。
もう一つの問題点は、親鸞聖人が、わが子善鸞さまを義絶したとする二通の手紙についてです。一つは、善鸞さまへ送られた「義絶状」。もう一つは義絶を門弟に知らせる「義絶通告状」です。しかし、この二通とも親鸞聖人の真筆が残っていません。
「義絶状」は高田門徒の顕智が写したもので、いわば善鸞さまの敵方です。写された時期も義絶の48年後で、世の中に出たのは大正10年になってからのことです。また「義絶通告状」は室町時代の版本でしか残っていないという点から、この二通がどこまで親鸞聖人の意志を伝えているか疑問が残ります。
幕府に訴えたのは、善鸞さまであると昔から言われているが、その史料的根拠も全くありません。そこで本当に善鸞さまだけが悪者なのか?という大きな疑問があぶり出されてきます。
もう一つの指摘は、「縄張り争い」という観点です。
もうすでに、関東でそれぞれ集団を作っている面授の門弟から見れば善鸞さまが関東に下ってくれば危険な競争相手となるのです。
自分たちの既得権が侵害される恐れがあります。善鸞さまに来られてもうれしくない、これがかなりの門弟たちの気持ちだったのではないかと思います。
最後に、親鸞聖人自筆の著作が、82歳から86歳の間で全体の約80%に近い執筆、書写をされています。
私たちは、この書物がなければ親鸞聖人の信仰内容をどれだけ知り得たでしょうか?そのおかげの影に善鸞さまの姿が大きく浮かび上がってきます。善鸞さまが居られなければ、はたして親鸞聖人はこれだけの書物を残すことが出来たでしょうか?私たちは、善鸞さまを非難するのでなく、如何に善鸞さまに感謝するかを考えるべきではないでしょうか、と締めくくられておられます。