司会・主催者挨拶
明治二十一年に文部・内務・宮内三省の合同によります、古社寺の宝物調査で訪れていたアメリカ人アーネスト・フェノロサによる「奈良の諸君に告ぐ」という歴史的講演がおこなわれたということです。今から122年前の正しく今日、6月5日のことでございます。この講演は自国の文化に自信を失いかけていた時代、日本に残っていた社寺の文化財の尊さ、そして重要性を再認識させ、多くの奈良県民に勇気を与えた講演会でした。本日はこの日本文化の大恩人でありますフェノロサ氏について、同氏が講演した同じ日、この同じ会場でその講演の意義とそれからフェノロサ氏の功績について、淨教寺島田和麿前住職様、引き続き奈良国立博物館・西山厚学芸部長様にご講演をしていただきます。
淨教寺前住職講話(要旨抜粋)
明治2年に、神仏分離令が発布されまして、仏教排斥運動ではなかったけれども、これはお寺を潰せという事やということで、全国的に仏教破壊運動が展開されました。そういう時期にフェノロサが現れたから良かったのかも分かりません。
行政の方と深い関係を持って、この日本文化の復興の為に命懸けの活動を始めたのがフェノロサでございました。
明治11年25歳で東京大学教授として来日して、同13年、早くも法隆寺と唐招提寺を訪れております。その時点で、唐招提寺にございましたその仏像の集積所のような処に、ギリシャの美を見た、ギリシャの光を見たんです。又同時に法隆寺の伝法堂の、乾漆弥勒菩薩像を見て、「これはシーザーだ」と叫んだ。日本の仏像を見まして、そこにギリシャの最高の美がずっと伝わって現れている閃きを感じ取ったのが明治13年でございました。それから毎年岡倉天心と共に熱心に奈良の文化財を調べて下さった。
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ博士はクリスチャンでございましたが、鋭い最高の頭脳、哲学、科学を持ちまして仏像を見、経典を見ると、仏教は素晴らしい。これは哲学的に言っても、宗教的に言っても、倫理的に言っても最高の宗教だということを発見したんです。日本人は「ああ、仏教か、こんなん迷信や」いうようなことで、軽いもんだと、やる人がやったらいいんだと思っている方が多いようでございますけれども、フェノロサは真剣でございました。
皆様日本人の方喜んで下さい。仏教のような最高の宗教がね、1400年前に伝わってまいりましてね、私達がその教えに触れる、なんという幸せなことだと、私毎日本当に教えに合わせていただいた御縁を喜ばせてもらっていることでございます。今現代人楽しみを求めているかも分からないけれど、喜びを発見する。どんな苦しいことがあっても越えて行けるようなそういうパワーを戴いているものだと思います。光りと喜びが与えられます。又自由あり平和があります。仏教には「罰」という言葉はありません。又「敵」という文字もありません。「もし敵を作るとしたら私が悪い、私の心が悪いと反省せよ」と、お釈迦様は仰って下さっております。
『明治維新後、西洋近代最先端の知識の伝授のため招かれたフェノロサは、文明開化に明け暮れる日本で、逆にその宗教と文化を真摯に学び、滅びゆくと思われた伝統美術、芸能、文学の保存と再生、世界への紹介に生涯を捧げた。東西の文化がはるかに歩み寄り、国際的同時性ともいうべき時代が到来している今、「東西の最良の媒介、世界的問題解決の上でパイオニア的実験」と彼が期待し、正負両面の歴史的経験に鍛えられた日本の役割は重い。』と、
これは村形明子さん(フェノロサ学会前会長)のお言葉でございますけれども、その意思を充分お考えをいただきまして、本当に世界の平和或いは本当の幸福、これは宗教です。本当に素晴らしい仏教が、滅びたかもしれないものを、開扉してくれましたフェノロサ博士に、私は深く感謝いたしております。
フェノロサ讃仰(講演要旨)
奈良国立博物館学芸部長 西山厚先生
明治21年(1888年)6月5日、今から122年前この淨教寺において一人の外国人が講演をしました。その外国人はアーネスト・フェノロサという名前のアメリカ人です。
フェノロサは1853年2月18日アメリカのボストンの郊外で誕生しました。父はスペインからの移民で音楽家でした。1870年、ハーバード大学で哲学を専攻し、大学院まで進学します。また1877年、ボストン美術館の美術学校へ入学し油絵を学びました。哲学を勉強し、美術、美術教育にも興味があるものの、移民の子に職はありませんでした。そんな中、モースという人が日本の東京大学へ推薦してくれました。モースは生物学者で大森貝塚を発見した人です。
1878年(明治11年) 、25歳のフェノロサは日本の東京大学へやって来ました。明治維新後の当時の日本は欧米列強国からの脅威にさらされ、いち早く近代化を推し進めるためお雇い外国人を招いていました。その一人としてフェノロサもやって来たのです。東京大学では政治学、経済学、哲学を教えることとなりました。そんな中、モースの影響で日本の古美術、特に絵画に興味を持ち収集をはじめました。そしてそれらを非常に高く評価します。
明治13年、フェノロサは初めて奈良へやって来ます。そして数々の仏像に出会い衝撃を受けます。フェノロサにとっては、人類が生んだ最高の美術はギリシャ彫刻でありました。ところが奈良にやって来てそれに全く引けをとらないものが、ここにもあそこにもたくさんありました。当時の日本は西洋化の波に押され、日本の古美術などは低い評価しかされておらず、奈良の仏像も同様に粗末な扱いを受けていました。それが明治21年6月5日の「奈良の諸君に告ぐ」という淨教寺での講演会につながっていきます。
その講演会の最後に、
今日、この奈良に存在せる所の古物は、ひとり奈良一地方の宝のみならず、実に日本全国の宝なり。世界においてまた 得べからざるの至宝なり。故に余は信ず。この古物を保存護持するの大任はすなわち奈良諸君のよろしく尽すべきの務に してまた奈良諸君の大いなる栄誉である。
と、奈良には大変すばらしいものがあり、それを守っていくのは奈良の人々の使命であることを訴えました。
フェノロサは『東洋美術史綱』という本に奈良の古仏について様々な評価をしています。この本には現在からみると学問的に異なる表現が出てきますが、学問というのは新しい資料が出てくるたびに更新されていくもので、その当時では最新の見解であります。ただ、フェノロサはいいものをいいと評価出来る眼を持っていました。大変な眼利きでした。その評価は現在も変わることがありません。
フェノロサは、日本文化の根底には仏教があると考え、琵琶湖のほとりの三井寺園城寺にて受戒をし、仏教に深く帰依をしています。そして、その仏教を基礎とした日本文化が、物欲にまみれ停滞するアメリカ社会に光明を与えることが出来ると考えていました。フェノロサはアメリカ全土で講演会を続け、ヨーロッパにも行きます。そして大英博物館にて調査中に心臓発作で亡くなりました。1908年 (明治41年)9月21日、55歳でした。
今年は遷都1300年祭で様々な行事が奈良県内で開催されています。この行事を通じて奈良にあるいいものをよく知り、それを守り残して下さった人々に感謝する、今年はそういう一年にするべきではないかと思います。