うみ

うみははひろいな 大きいな
つきがのぼるし 日がしずむ

うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

うみにおふねを うかばせて
いってみたいな よそのくに

7月20日は「海の日」です。海について親鸞聖人のおことばを伺ってみたいと思います。
親鸞聖人の「海」の使い方には、衆生(人間)の相を表す場合と、法(阿弥陀仏のはたらき)を表す場合とがあります。
衆生(人間)の相を表す場合は、難度海・群生海・衆生海・生死海・無明海・煩悩海などの表現があります。また、法(阿弥陀仏のはたらき)を表す場合は、一乗海・大智願海・功徳大宝海・慈悲海・信心海・誓願海・真如海などの表現があります。

親鸞聖人はご本典『教行信証』に「海」を解釈されて、

「海」というのは、はかり知れない昔からこれまで、凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、五逆・謗法・一闡提などの限りない煩悩の水が転じられて、本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることである。これをうみのようであるとたとえる。

これによってまことに知ることができた。経に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれている通りである。

本願の海は声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿さない。まして、神々や人々のよこしまないつわりの善や煩悩の毒のまじった自力の心の死骸など宿すはずがあろうか。

このように表現されています。

はじめは、煩悩の水が本願の慈悲と智慧との限りない功徳の大宝海水に転じられることが述べられています。これを同一鹹味(ドウイツカンミ)の徳、不宿死骸(フシュクシガイ)の徳と言います。

同一鹹味(ドウイツカンミ)の徳の鹹(カン)とは「しおからい」という意味です。清らかな川の水も、濁った川の水も海に流れ込んだならば一味の塩味に転じられるということです。

転悪成善(悪を転じて、善と成す)ということばがありますが、この親鸞聖人の表現は、悪だけが転じられるのではなくて、「凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、五逆・謗法・一闡提などの限りない煩悩(悪)の水」という表現で、悪だけでなくて「自力の善」をも含めた善悪ともに転ずるという言葉で表現されています。

『正像末和讃』には

弥陀智願の広海に  凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなはちに  大悲心とぞ転ずなる

と、「凡夫善悪の心水も」悪だけでなくて、善と悪とともに転ずるのです。何故か?転じないと浄土へ往生出来ないからです。自力の善では往生出来ないのです。

『高僧和讃』(善導讃)には、

願力成就の報土には  自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら  如来の弘誓に乗ずなり

とありますように、自力の善では往生不可能なのです。

清らかな川の水(自力の善)も濁った川の水(煩悩の水)もともに海に流れ込んで、一味の塩味(本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水)に転ぜられていくのです。

『教行信証大系』第三巻には、

「海」とはすなわち無碍光の利益であります。

海徳に寄顕(寄せてあらわす)して本願一乗の徳用を知り易からしめたもう。

(海の十徳とは、1、次第漸深の徳 2、不宿死骸の徳 3、餘水入失本名の徳 4、普同一味の徳 5、無量珍宝の徳 6、無能至底の徳 7、広大無量の徳 8、大身所居の徳 9、潮不過限の徳 10、普受大雨の徳である。)

『高僧和讃』(曇鸞讃)にいわく

本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して
煩悩菩提体無二と すみやかにとく さとらしむ
無碍光の利益より 威徳広大の信をえて
かならず煩悩の こほりとけ
すなわち菩提のみずとなる
罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて
こおりおおきに みずおおし さわりおおきに徳おおし

と、明かに知る。円頓一乗の真利は唯だこれ無碍光の利益であります。

と、稲垣瑞劔先生は解説下さいます。

不宿死骸(フシュクシガイ)の徳とは、ここで言う死骸とは自力根性(善根)のことで、本願海の中には自力の善根は宿さないということです。いかなるものも、自力の善というものがすたってしまって本願力にからめとられていくということであります。

お慈悲(阿弥陀如来の必ず救わずにはおかんという呼び声)に気づかされた時に、自らの罪業の自覚と同時に慈悲の救済の自覚が同時であるという、二種深信の心がこの「海」の解釈として理解されるのであります。

2009年07月01日 法話
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