仏教の原点・生死の自覚

5月 永代経法要 法話より 講師 木曽 隆先生

私は現在、新潟県の長岡西病院のビハーラ病棟の中でボランティアの僧侶として患者さんと話をさせてもらっています。
今年で開設17年目に入りましたが、毎年約100人近くの方が亡くなっていかれます。統計をとってもらっていますが、現在まで約1,600人位の方が亡くなっておられると思います。その人たちと私はお話ししてきたわけですが、はっきり申し上げまして、よくお顔がわかり、お話が出来て、かかわりが出来たなというお方は50~60人位でしょう。全ての患者さんと心がうちとけて、お念仏のお話ができたかというと、全体の5%も行かないくらいです。
ビハーラ病棟というのは末期癌専用病棟です。告知をきっちり受けて、自分が末期の癌で、あと数ヶ月で亡くなっていくのだということをあきらかに理解されている人は4割くらいの人達です。この4割弱の人達は、自分の死というものを自覚して毎日を過ごし、死というものを見つめて自分のいのちというものを考えられます。だから宗教を求める方が多いです。

55歳の会社の社長は、自分が末期癌に侵され、それまでは年に1、2回しかお寺にお参りしたことがなかったけれども、仏壇に参り、母が常に大切にしていた「正信偈」を見てそれに書き込まれた意味がわからないということで、ビハーラの僧侶に解説してもらい、仏縁を深め、「正信偈」を毎日のように勉強して最後は法名をもらい亡くなっていかれたという方もおられます。
また、54歳で末期の肝臓癌で、ビハーラ病棟第1号で入院された大工さんは、酒と博打に明け暮れ、家族とも別れ、親戚、兄弟も全く見舞いに来ないという状況の中、仏堂に参り、法話を聞いて行く中に、自分は地獄にきっと落ちるだろう。と自分の行いを見つめ直し、自分が周りの人々に迷惑をかけたことをお詫びせずには死んでいけないと、肺に転移した危険な状態で、看護師とビハーラ僧に付き添われて、家族、親戚、知り合いの元に、いとまごいをして、「これで自分は気が済んだ。」と言って、いよいよ肺の癌が進行して、明日をも知れない状態と告知された後、「木曽さん、俺はもう、いつあっちに行くかわからないです。」と言われました。いままで地獄へ行く。と言っていた人があっちと言って上を指さすということは、お浄土が見えていたのでしょう。このように、お念仏の教えは、末期のがん患者でも救いとっていく力があるのです。

フランクルという人が「苦難と死とは人生を無意味なものとはしません。むしろ苦難と死こそ人生を意味あるものとするのです。」という有名なことばを述べておられます。
その通りだと思います。順調すぎて自分の思い通りになると思っている時は、それは有頂天になっている時で足元が見えなくなっているのです。
死ということを自覚した時本当の人生ということが見えてくるのだろうと思います。

千葉敦子という癌で亡くなったジャーナリストが「よく死ぬことは、よく生きることだ」という本の中でこんなことを書いておられます。
「いのちが有限であることを深く認識すれば、世間的な成功とか、物質的な裕福さとか、ばかさわぎなどがどんなに意味のないものであるか、自ずからはっきりしてくる自分は何をするために生きているのか。残された時間に何をすべきかを考えるようになる。」ということを言っておられます。

私たちもいつかは死ぬということはわかります。
「御文章」の中に「我や先、人や先。今日とも知らず、明日とも知らず・・・」とありますが私たちは、我や先が抜けて、人や先、人や先。になってしまいがちです。
しかし、この千葉さんは、3度目の転移でいよいよ亡くなっていかなければならない。いのちが有限であるということを深く認識した時にどうなるか?世間的な成功、この方は世界的なジャーナリストとして評価され成功されているのです。物質的な裕福さ。物の豊かさ。また、ばかさわぎなどが、今、テレビを見ますと今日さえ良ければ、おもしろおかしく、というテレビがたくさんあります。お金お金と求め続け、おもしろおかしく生きればいいと思っていることがどんなに意味のないことであるかがおのずからはっきりしてくるのです。

私たちは、親を縁としてこの世の中に生まれてきました。かけがえの無いいのちをいただいてきました。何のために生きるか?今何をすべきなのか?ということを考えなければいけない。これが仏教という教えの始まりなのです。

この生命(いのち)尊し、ということが生死(しょうじ)のいのちである。ということに気をつけなければいけません。生命では生きることがいのちの全てである。ということです。死なないものだと思っているのです。いつまでも生きれると思っているのです。仏教では生死のいのち。このいのちははかないいのちである。朝に紅顔あって、夕べには白骨になれる身なり。80歳のおばあさんでもオギャーと生まれた赤ちゃんでも90歳まで必ず生きるという保証はありません。生きるということがいのちの全てだという思想が現代の思想です。だから仏教になかなか帰依しないのではないかと思います。わからないのです、自分のいのちが。自分のいのちに気が付いてないのです。生死のいのちであるということに気づいたら、千葉さんのように「何のために生きているのか。今何をすべきかということを明らかに考えるようになる。」

お釈迦様の「毒矢のたとえ」があります。今、毒矢が刺さったのに、この毒矢は何で出来ているか?誰が射たのか?何のために射たのか?これらのことが分かってから毒矢を抜いてくれ。などと言っていたら毒が体に回って死んでしまします。

これと同じで、今私はまず何をしなければならないのか?深く考えることが大切です。生死の解決なのです。ここに気づかなければなりません。私のいのち全体の生も死も解決されていく世界を目指すものが仏教なのです。

2009年06月01日 法話
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