廃仏毀釈における西本願寺(明如上人)の功績

明如上人は江戸末期となる嘉永三年(1850)に誕生され、明治四年(1871)、廃仏毀釈が激化する難局の中、22歳で西本願寺第21代宗主となられました。
いち早く欧州の宗教事情を調査するために僧侶を派遣され、廃仏、神道国教化へと進める政府の対策に対応。自由に布教が出来るように政府に建白書を送られるなどして、廃仏の危機を乗り越えられました。
宗門内では機構改革に着手され、宗務処理のほかや本末制などを改革、各寺院は本願寺と直結することになりました。
また、公選した議員による宗政の運営を行う議会開設を決意され、明治十四年(1881)には、第一回集会(しゅうえ)(現在の宗会)が開催されました。これは日本の国会より九年早い議会開設です。
さらに学校制度改革を実施され、京都に大教校(龍谷大学)を設置、地方七カ所に中教校、各県に小教校を設置して寺族の教育にあたられました。諸施策実施の費用を得るため護持会財団も設立。さらに、社会教化と福祉事業の推進のため慈善会財団を設立されました。
また、鹿児島、北海道の国内のみならずハワイ、北米と開教に着手されるなど現在の教団の礎を築かれましたが、明治三十六年(1903)一月十八日、五十四歳の若さで示寂されました。

 

明治維新政府の宗教政策

明治元年(1868)三月、明治維新政府は江戸幕府を倒したあと、「王政復古」を宣言して、天皇を中心とした強力な中央集権国家の形成を目指しました。そこで天皇にこれまでの幕府の将軍を凌ぐ大きな権威を付与しなければなりませんでした。ここで見出されたのが天皇が神権をもって日本を統治することでした。いわゆる「天皇制絶対主義国家」です。
このような国家を形成するために、維新政府は神道国教化政策を早急に推進していきました。まず明治元年三月に、祭政一致・神祇官再興を布告し、また「神仏判然令」を布告しました。この法令は、従来、本地垂迹(仏教が根本で神祇は従属的なもの)というかたちで神仏混淆していた現状から神を自立させ、仏より優位にしようとするものでした。この法令に基づき、全国の神社はこれまで祭祀してきた本地仏・仏堂・仏具類をことごとく取り除いたり、破壊したりしました。そしてこれがさらに廃仏毀釈へと進み、全国で10万ヶ寺あったお寺が半分の5万ヶ寺へと仏教寺院の破壊がなされました。
続いて明治三年(1870)正月には「大教宣布」の詔勅を発布しました。大教の主旨は、すべての国民が神(天皇)を敬い、人倫を重んじ、勤皇奉公の精神に統一させるために国民の教化にあたる、というものでした。そして、その教化のために明治五年(1872)四月に「教部省」を設置し、ここに「教導職」という職制を設け、神官のほかに、民衆と馴染みの深かった仏教僧侶も参加させ神道の国民教化を推進しました。さらに政府は同月、神道国教化政策の根本理念である『三条の教則』(「敬神愛国の旨を体すべき事」・「天理人道を明らかにすべき事」・「皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事」)を発布しました。明治六年(1873)一月には東京増上寺に神官の養成所である「大教院」を開設し、地方に中教院、小教院を設け、小教院には各宗の末寺があてられました。このようにして、全仏教教団は、政府の神道国教化政策推進の一翼を担ったのでした。

 

真宗僧侶による政教分離、信教の自由の提唱

明治維新政府が進めた廃仏毀釈や神道国教化政策などの宗教政策に対し、日本仏教界を代表して、正面から敢然と立ち向かったのが浄土真宗本願寺派の島地黙雷などでした。この島地黙雷に大洲鉄然、赤松連城、香川葆晃を加えた長州出身真宗僧侶四人は、「仏教界を守った維新四僧」と称されることもあり、彼らの活躍・功績は大きいものでした。
島地黙雷は明如上人の指示を受けて、明治五年から六年にかけて約一カ月半ヨーロッパの宗教事情の視察に出かけました。島地黙雷はこれらの先進諸国で「政教分離」や「信教の自由」が保証されている事情を見て、明治五年十二月外遊先から維新政府の宗教政策を批判する文書を「教部省」に対して神道国教化の根本理念となっていた「三条の教則」を批判した「三条教則批判建白書」を提出しました。そうしたいわゆる政教分離運動が効を奏し、明治八年、本願寺は政府の神道教育の中心機関であった大教院から脱退し、大教院は解散し、明治十年には教部省も解散することとなりました。ここに島地黙雷らによって日本の歴史上初めて「信教の自由」が提唱されたのでした。

参考文献 「本願寺新報」・「明明風雲」・「長州、浄土真宗西本願寺派連合と国家神道」

2008年07月01日 法話
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