今年3月21日(金)午後2時から、淨教寺24世(前住職)23回忌法要・第23世(前々住職)80回忌法要・第22世(前々前住職)100回忌法要ならびに前々坊守37回忌法要をお勤め
させていただく予定です。門信徒の方々とともに明治、大正、昭和と淨教寺を護り支えてくださった先人のご遺徳を偲びたいと思います。万障お繰り合わせご参詣いただきま
すようにご案内申し上げます。
淨教寺開創750年記念誌に現住職(淨教寺第25世)が下記の文章を掲載していますので、4人の方々のご恩を偲びたいと思います。
恩海無量 淨教寺今昔おぼえがき
淨教寺第22世 島田法城 師
●明治元年から九年ごろまで、排仏毀釈の嵐は全国をおそったようです。
しかし、真宗教団は、つねに門信徒とともにありましたから、その影響は少なかったようです。そんななか、敢然とたちあがり、宗教の自由を時の政府にもとめ、それを打開
したのも本願寺の学僧方でした。当時、浄教寺はいささかその影響を受けまして、山門を手離す寸前までいったようです。それを京終の井上家(現当主井上キン氏)がまもって
くださったとききました。ときの住職の21世徳誓(真野孝延)はついに明治15年、淨教寺を出られました。
●明治17年、本山からのご使僧の島田法城師(島根県)が第22世を継がれました。ご高徳の方で、当山の興隆につとめられました。
明治21年には、「フェノロサ」を招へいし、大講演会『奈良の諸君に告ぐ!』を開催しました。
淨教寺第23世 島田乗教師 第23世坊守 島田幸代
●法城師から島田姓となりましたが、実子なく、遺言により河内、国分の西法寺から祖父(安藤)乗教(第23世)が明治42年に入山し、五條市の宝満寺から梁瀬幸代が入嫁しました。
乗教師は、無我で、明るく、ひょうひょうとした人柄だったようです。
水墨画をよくし、お経をあげるかわりに絵をかいたとか。ふるいご門徒のお宅でよく見せていただきます。しかし、44歳のとき、ワイル病(伝染病)にかかり、十日余のわずらいで、(昭和4年6月)亡くなりました。とてもきびしい病気だったようですが、「法蔵菩薩のご苦労のことを思えば、このくらいのことは……」とひとこともくるしいと言わなかったようです。
臨終近くなって枕辺に寺族をよび、「わたしが死んでも、決して、泣いたり、悲しんでくれるな、ちょっと一足お先きにあみださまのみもとにまいらせてもらうだけなんだから」とかえって家族をなぐさめた、と聞いています。
その祖父(大正)のころから昭和十数年のころまで、はなれ座敷に、辻本史邑氏(書家)、末永雅雄氏(考古学者)や教育者の方々が入れかわり、住まわれていました。みなさん、その道で、大成されていかれました。
●祖母幸代は39歳のとき先住とわかれ、念仏三昧の日をおくりました。とくに私を可愛がってくれ、中学生のころまで、うでまくらして、仏法のよろこびを語ってくれました
。生涯ほとんど、「旅」とか「楽しむ」ということをしなかった祖母でした。
故足利浄円師を慕っていました。
祖母の半生は本堂再建に注心し昭和43年の落慶式を迎えましたあと、ほっとしたのでしょう。
その三年後(昭和46年)、お浄土へ旅立ちました。
淨教寺第24世 島田義昭師
●乗教師早逝のあと、奈良県高取町兵庫の教恩寺(梁瀬)義昭が昭和四年入山しました。
前住、父義昭(第24世)の時代は、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦があり、わけても、昭和11年1月26日には、本堂全焼の悲運を享け、労苦多い人生でした。
しかし、いささかもひるむことなく、ひたすら聞法と伝道につとめ、30年を費して、りっぱに本堂を完成し、(「本堂再建の足あと」参照)昭和61年3月18日、往生の素懐をとげ
ました。
それにしても、父の出征、軍隊生活のなか、祖母と母はよく本堂の、建築を見守りながら、淨教寺の法灯をかかげつづけてくれたものと、つねづね感謝しています。
申すまでもなく、これみな仏祖のご慈育とおまもりのおかげ、門信徒のみなさまのご庇護のたまものでございます。