幸福はいたるところに

稲垣瑞劔 先生 『人生の幸福と仏教の使命』より

人間は一切衆生を完成せしめると共に自己を完成する、自己を完成すると共に一切衆生を完成することが真の幸福である。仏教の使命は此処にある。具体的に云うならば仏と仏の教の恩を感じ、父母、師長、朋友、社会、一切衆生の恩を感じ、また大自然の恩を感じて、恩に酬(むく)ゆる道に強く旅立つことが幸福である。それがためには身体を強健にし、むだ遣(づか)いをつつしみ、親に孝行し、仏教に耳を傾け、広く社会の人に慈悲を施さなくてはならぬ。これが出来る人は最も幸福な人である。

釈尊の一句の法門(注1)でも真に味わったらこれほど幸福なことは無い。一句に無量の意義が含まれている。大きなところに眼をつけることも大切であるが、手近な一句をいただいて、よく之を玩味(がんみ)することも更に大切である。

人生の海を渡る上に於いて大事なことは、常に力と、信仰と、健康とを養い、いついかなる環境に置かれようとも、びくともしないのみならず、前のところもよし、今のところもよし、よしよし、彼処も如来の大悲を説くことが出来る、此処もお慈悲をよろこぶことが出来ると、よろこぶようになりたいものである。

親鸞聖人は流罪に遭(あ)われた(注2)が、その時「自分が流罪にあ遭わなかったならば辺鄙(へんぴ)へ行くこともなかろう。辺鄙へ行かなかったならば辺鄙の人間に仏法を説くことが出来ないであろう。流し者になってこそ彼等に仏法を説くことが出来る。これもまた師匠法然上人の御恩である。」と云ってよろこばれたのである。

「臨済録(りんざいろく)」の中に「随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば立処(りっしょ)皆真なり」という言葉があるが、慈悲の眼を以て見る所、如何なるところでも都ならざるところはない。

人間は善い事をすればすぐに鼻が高くなる。立派な事業をすれば直ぐ鼻が高くなる。学問があっても、財産が出来ても、地位が上がっても直ぐ鼻が高くなる。女の人であれば自分が美しかったら、それで鼻を高くする。鼻の高いのはよくない。これがやがて不幸を招く原因である。人間も善をして善を思わず。悪をして慚愧(ざんぎ)するようになれば幸福は降って来るにきまっておる。「謙(けん)」の一字は幸福の泉である。人は大信心の世界に入るか、「さとり」の境界に入って、善悪とも忘れて、しかも道にかなった行いが出来るようになれば、これは上々である。この境地が幸福そのものである。

(注1) 釈尊の一句の法門

『仏説無量寿経』 下巻の「成就文」
あらゆる衆生(しゅじょう)、その名号(みょうごう)を聞きて、信心歓喜せんこと、 乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く。

親鸞聖人のお言葉 『教行信証』総序の文
ひそかにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無碍(むげ)の光明は無明の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。

蓮如上人のお言葉 『御文章』4帖目8通
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘(ほうぞうびく)たりしとき、「衆生仏に成らずは、われも正覚(しょうがく)ならじ」と誓いましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなわち、われらが往生のさだ定まりたる証拠なり。

これらのお言葉は、暗記するまで拝読して、時間があればこのご文を常に念じていただくように心がけたいものです。

(注2) 親鸞聖人は流罪に遭われた

宗祖親鸞聖人が、承元(じょうげん)の法難(1207年)による念仏禁制の弾圧によって、越後の国・国分(こくぶ)(現在の新潟県上越市)に流罪になられて今年(2007年)で八百年になります。恩師法然上人も土佐の国(実際は讃岐)へと遠流に処せられました。

2007年06月01日 法話
pagetop