仏法は鉄砲の反対じゃ

明治・大正・昭和を生き抜かれた高光大船というお東のお坊さんがおられます。その高光先生にまつわる大正の中ごろの話をご紹介いたします。
高光先生がご門徒の家へ報恩講に行かれたのです。そしたら、そこのあんちゃんが(あんちゃんというのは金沢ではお嫁さんをもらう前の長男のことです。)珍しく報恩講に参ってくれている。それで、高光先生は
「あんちゃん。今日の報恩講によく参ってくれたな。ありがとう。うれしいことや。」と、おっしゃった。

そうしたら、あんちゃんはムーッとして
「俺にとって今日は厄日や!」と、言ったそうです。
「厄日とはどういうことや。」と、聞いてみたら。

「今日はたまたま非番で、昼まで寝て、昼から金沢の街へ映画でも観にいこうと思っていたら、朝からお父ちゃんとお母ちゃんが枕元で両手をついて頼むんや。今日は報恩講様や、親鸞さまのご法事やから参ってくれ。とあんまりしつこく頼むものだから、しかたなしに居るだけや。俺にとっては今日は厄日や。こんなんだったら仕事があったほうがよかったわ。」

そしたら、高光先生は、
「厄日でも何でもよい。あんちゃん、よう参ってくれた。ところで、めったにお前さんに会うことが無い。今日は久しぶりに会うたんやから、どうじゃ。何か仏様のことについて聞いてくれんか?仏法についてなんか聞いてみんか。何か話をしようじゃないか。」
と、おっしゃった。そしたら、あんちゃんは、
「何もない、何も知らん、仏法なんて聞いたことないから、何を聞いていいかわからん。」
といって、プイと横を向いてしまったそうです。

それでも高光先生は、「そんなこと言わんと、なんかあるやろう。よーく考えてみよ。」
と、こうおっしゃた。そしたら、そのあんちゃんしばらく考えておったが、
「そんだけ言うなら聞いてやろ。うちの親は朝から晩までうるさいんや。朝起きて顔を洗っている後ろから、仏法聞いてくれ。仏法聞いてくれ。と、やかましい。あの仏法というのはなんじゃい。難しく言われても解らん。一口で仏法が何か教えてくれ。」

と、そう言うたんです。これはなかなか難しいことですね。キリスト教ならばバイブル一つで十分です。仏法は八万四千の法門というて『大無量寿経』の教えもあれば、『法華経』の教えもあれば『涅槃経』もあれば『華厳経』もある。それを一口で言え。というのは、なかなか難しいんですよ。
ところが、さすがは高光先生。あんちゃん良く聞いとけよ。といわれた言葉が有名な、

「仏法は鉄砲の反対じゃ」

と、おっしゃった。あんちゃん、なお解らん。
「なんじゃ? 鉄砲のはんたい? 鉄砲の反対てなんじゃ」
「鉄砲は、生きとるもんをズドンと殺すのが鉄砲じゃろ? 仏法はなあ、死んだものを生き返すのが仏法じゃ」
と、おっしゃった。そしたら、このあんちゃん。何を勘違いしたか、

「なんじゃ?死んでる人間生き返すのか?そんなら、あの棺桶の中の人間が生き返るのが仏法か?」
「あほぬかせ。あの棺桶入いっとんのはムクロや、死骸や。死骸が生き返ってどうするんや。そういうことじゃない。」

「そんなら。どんなのを死んだと言うのや。」
「あんちゃん、回りを良く見てみよ。死んでる人間というのは案外多いのやぞ。」しかし、あんちゃんには解かりません。

高光先生はあんちゃんに近寄り、胸をポンとたたいて、
「お前さんのような人間を死んでる人間と言うんだ。わかるか。」
と、おっしゃった。さぁ、あんちゃん怒りだした。

「わしは死んでなんかいない。生きとるんじゃ。ほら見てみ。」と、手と足とを動かして見せた。

「それは、動いとるだけじゃ。生きとるんじゃない。」

「お前さんは国鉄(今のJR)の金沢機関区の蒸気機関車の機関士さんをしているそうだな。親がいつも自慢しているぞ。その機関士さんにお尋ねしますが、あの機関車というのは毎日石炭をパクッパクッと食べて、定められたレールの上をカタコトカタコト走り出して、行ったり来たりしているが、あれは生きとるんか?」

あんちゃん答えて、「いやあれは、生きとらへん。あれは機械や。生きもののようやけど鉄の塊や。蒸気機関車は生きとらへん。」

それを聞いて高光先生大喜びです。「お前は偉い。よくわかっているやないか。大事なことをわかっているやないか。」といって、もう一度あんちゃんに尋ねます。

「お前も朝、昼、晩と三度のご飯パクパク食べて、毎日だいたい同じようなことをして、休みの日には昼まで寝て、昼から映画でも見に行こうと言うてる様な生き方をしているお前は、蒸気機関車とどこが違うか教えてくれ。同じじゃろ。お前も動いてるけど、生きとらへん。そういう人間を死んでる人間と言うのや。その死んでるお前のような人間を生き返らせてくれるのが仏法や。解かったか。」

厳しいですね。このことがあんちゃんの目を覚ましたんです。
それから、あんちゃんは燃えるような勢いをもって、高光先生に就いて仏法を聴聞しはじめたそうです。
この外からの呼びかけが大事です。なかなか私たち自分からは気付いていかないです。毎日同じようなことをしている私たちに、本当にそれでよいのですか?本当にそれで生まれてきてよかったのですか?生きててよいのですか?これからいかに死んでいくのですか?それで死んでいけますか?こういうことに目覚めてくれよ。気付いてくれよ。という呼びかけに出遇うことが大事なことです。その呼びかけに出会うには聴聞していただくしか方法はないのです。

(平成19年3月15日淨教寺会館彼岸会 武田達城先生ご法話より)

2007年05月01日 法話
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