報恩講

淨教寺では、本堂で毎年10月18日から20日の3日間(7座)の報恩講法要と学園前の淨教寺会館報恩講を11月初旬(2座)、そして11月20日に淨教寺庫裏でお内仏報恩講をお勤めいたします。宗祖親鸞聖人のお徳を讃え、ご恩に感謝させていただく大切な法要です。ご参詣いただきました方々はその感動を新たにしていただき、ご参詣いただけなかった方々はご講師の尊いご法話を一部収録いたしましたので阿弥陀さまの慈悲の世界を受け止めていただければと思い、本日はその要旨をまとめまして「報恩講法のたより」をお届けします。

2006年10月19日
報恩講大逮夜法要法話 高田慈昭先生

☆ 念仏の違い

同じ南無阿弥陀仏でも比叡山の念仏と法然上人の念仏とどう違うのか?
比叡山で堂僧として常行三昧堂で不断念仏のご修行を積まれていた親鸞聖人であったが、心の闇は晴れなかった。ところが法然上人に出会いました時に、やはり南無阿弥陀仏でありましたが親鸞聖人の心の闇が破られたのであります。
それは光り輝く明るい明るい光明の念仏であったのであります。法然上人の念仏も比叡山の念仏と同じ南無阿弥陀仏の六字のみ名を称える念仏ですが、根本的に違う。どう違うのか、ということが大事なことです。比叡山の念仏は定・散の念仏、法然上人の念仏は非定・非散の念仏と言います。真反対です。定というのは心を静めるのです。そして三昧の境に入って仏に近づいていく。仏をつかもうとする。阿弥陀仏と一体になっていこうとする。我が心の中に阿弥陀仏をつかんでいこうとする念仏。これを定の念仏。散というのは、我が心というのは静めることが出来ない、散乱している、乱れている心であっても仏に近づこうと努力する念仏なんです。
ところが法然上人の念仏はそうでなかった。定にあらず、散にあらず。仏さまをつかむのでもなければ、仏さまに近づいていこうとするのでもない。世間一般では仏さまの方に向かって行をしたり、近づいていこうと努力することが常識的ですが、法然上人の念仏は違うのです。選択本願の念仏といわれるように、本願の念仏、阿弥陀如来の根本の願いから与えられている念仏、しかもそれは阿弥陀仏のお手元で選んで選んで選び抜いて私に授け与えられた、恵みの念仏ということです。
早い話が、こちらから天に向かってはしごをかけても天に行くことはできませんが、天から下ろされたはしごなら登っていくことが出来ます。こちらから仏をつかんでいくのでも、近づいていくのでもない、それが向こうから与えられた非定非散という仏さまの大悲、誓願、本願、仏の願い。向こうから「どうかこの南無阿弥陀仏を与えるから、これを受け取って救われておくれよ」と、願われている。向こうから恵み与えられた。私が称えるところに力があるのではない、称えて出て下さる南無阿弥陀仏の名号そのものに大きなはたらきがあるのです。念仏一行で事足れり。 比叡山は自力の念仏。法然上人は他力の念仏。ここが大きな違い、方向が真反対です。龍樹菩薩が仏教を難行道と易行道に分けられました。難行道というのは難しい行なのです。これは自分の足で道を歩くようなものであります。易行道というのは易い行なのです。それは船に乗っていく道なのです。そういう分け方を始めてされたのです。自分の足で行くというのは自力です。向こうから与えられた船に乗ったならば、自分の足という条件は要らないわけです。無条件です。船に乗って船のはたらきで向こうへ行くときには寝たきりの病人でも、マラソンの選手でも区別はありません。全ての人が分けへだてなく万人が平等に運ばれていく船のはたらきです。どんな大きな岩でも石でも船に乗ったら運ばれていくのです。船に乗ったからといって石が軽石に変わるわけではありません。沈む石の性質はそのままなのです。しかし、船の力が強いからどんな大きな岩でも船に乗せたら向こうに渡っていくのです。どんなに地獄行きの極悪人でも、悪道に沈む人間でも、凡夫でも如来の願力の船に乗せてもらったら沈むままが沈まぬ身となって向こうに運ばれていく、これが他力というものです。仏教では他力の他とは、仏力です。仏さまの力、阿弥陀さまの力。本願力。そこで親鸞聖人が比叡山の念仏で行き詰まっておられた時に法然上人の念仏に入って、向こうから届けられた功徳円満の法が私の生命の奥底にまで恵み与えられてあったという世界に気付いていかれたのです。そうなった時には、妄念・煩悩を抱えたまま浄土の悟りに運ばれていく。そこに大いなる仏さまの大慈悲のはたらきの中に身も心も、いのち全体をまかせきっていくということが信心ということです。信心というのは私がつかんで信じていくというのとは違うのです。浄土真宗の信心は疑いがない。つまり、お任せするよりほかない。地獄、餓鬼、畜生の三悪道に落ちて行くような罪をかかえたこの私がそのまま向こうから与えられた船に乗ったならば、その船に運ばれて向こうの岸に、彼岸の浄土に到ることが出来るのです。

 

2006年11月4日
淨教寺会館報恩講 梯 實圓先生

☆ 唯除のこころ

『尊号真像銘文』の一番最初の所に親鸞聖人は「唯除というは、ただのぞくという言葉なり」と、除外するという言葉なんだ。除くといったら何を意味しているのかというと、「五逆の罪人を嫌い、謗法(ほうぼう)の重き咎を知らせんなり」この五逆の罪がどんなに重い罪であるか?正法を誹謗することがどんなにおそろしい罪であるかということを思い知らせるために除くといわれたんだ。では、ただ除くだけかというとそれは「この二つの罪の重きことを示して十方一切の衆生皆漏れず往生すべしと知らせんとなり」と、ご開山は仰る。除くという言葉で救いを表しているのである。どういうことかというと、これは五逆がとんでもないおそろしい悪であり、正法を誹謗することがとんでもないおそろしい罪であることを思い知らせて、思い知ったらどうするか。悪を悪と知ったということは、それを悪とする法の体系を受け入れたことになるのです。これは悪いことをしたということになると、それを悪いことだという法の体系を受け入れたんでしょう。だから悪ということが言えるんです。私は悪人だという人がもし居たらその人は正しい法を受け入れている人です。そして私はとんでもない罪人であると気がついた人は、それを罪とする法の体系を受け入れて法の前に謙虚に頭の下がっている人です。これが大事なとこなんです。一番問題は正法を誹謗しても悪いことだと思ってないでしょう?仏法なんてナンセンス。そんなもの何やと思っている人も多いですよ。
法を無視するようになりましたら、それは自分の思いのままに生きるしかなくなりますよ。それは自分の都合だけで生きていくわけです。自分に都合がいいか悪いかで判断していく。自分に都合のいい人は味方だ。都合の悪い人は敵だ。敵は排除していこう、味方は増やしていこう。そんな形で生きていけば世の中争いが増えるのは当たり前です。そうしますとそこから五逆罪も生まれてくるわけです。悪を悪と知るということは法を受け入れたことになります。悪を悪と思わない人も世の中には結構います。それは法を無視する人ですね。仏様が一番嫌っているのは五逆だぞ。それから正法を誹謗することを一番嫌っていらっしゃる。法に背く生き方を排除しようとしている。それは何かというと人々を悪から護ってやりたいから、罪から護ってやりたいから、こういうことをしてはいけないぞ、考えてはいけないぞと、仏さまは仰っている。それを踏みにじって生きていくなら当然自ら悪の中に落ち込み、そして、自分で苦しみにのた打ち回っていく生き方をするしかないのです。
そこで仏さまは五逆、謗法、一闡提というこれらのものを何とか回心させねばならん。そのために除くというきつい言葉を使うことによって私たちにその厳しさを教え、悪の厳しさを知らせることによって回心させた。
悪を悪と知ったなら、申し訳ないと気が付いたのです。これは恥ずかしいことであり、申し訳ないことであると気がついた人です。だったらブレーキがかかる。必ずブレーキがかかる。そのブレーキをかけて下さるんだ。心の中に。そして、正しい方向性を我々の心の中に植えつけてくださるのです。これが仏さまの救いなんですよ。教育なんですよ。教えというのは人を育てることです。教えによって人を育てる。どんな人に育てるか?法を受け入れて、自分自身の煩悩にブレーキをかけて、ブレーキのかかる人間に育てる。そして、正しい方向性を与えていく、そういうことが仏さまの教育なんです。
それによって私たちはお育てを受けていくわけです。だから、除くという言葉によって実は仏さまは回心させて救済しようとする。そういうお心がこの除くという言葉にある。
だから、「この二つの罪の重きほどを知らせて」と。知ったら慚愧する。恥ずかしいという心が起きる。申し訳ないという心が起きる。その心を起さして、そして、一人も漏れなく救おうとなさってるんです。これを「十方一切の衆生を皆漏れず救わんとなり」一人も漏れなく助けんがために一人も漏れなく回心させる。一人も漏れなく罪と知らせ、悪を悪と知らせて、真実を真実と仰ぐ人間に育てていく。それを回心という。心をひるがえすことですから回心というのです。
自己中心的な考えをひるがえして、如来様の思し召しにしたがって生きていこう。そういう人間に我々は転換させていただく。
お念仏申せよと言われたら、「はい」と言ってお念仏申す人間となる。そして「お浄土に生まれるんやで」と言われたら「ありがとうございます」と言って浄土を生きようと期する人間となる。そういう人間に私たちを育てて、法にかなって生きていく人間に育てていく、それが仏さまの救いというものです。
心に新しい秩序を与えて、そして、方向性のある人間に育て上げていく、そして、ブレーキのかかる人間に育て上げて、危なさを少しでも少なくし、危険を少しでも少なくしていくブレーキを利かせる、そして、方向性を持たせるように如来様は私たちを導いていく、これが仏さまのお救いです。
例えば、車、100㌔も出る車で一番大事なのはブレーキです。ブレーキの利かない故障した車で100㌔も出して走ったらえらいことです。必ず事故を起します。事故を起したら自分が傷つくだけでなく、他人にも迷惑をかけます。ですから気をつけなければいけない。方向性がはっきりしなければ、どこへ行くか分からない。ハンドルはちゃんとしておかないと。仏さまに手綱をとってもらって仏さまに導いていただきながら生きさせてもらう。仏さまの教えを中心にして生きようという人間に転換していくことを「斉しく回入しぬれば、衆水海にいりて一味なるがごとし。」、大きな川の水も小さな川の水も濁った川の水もきれいな川の水も海の中に溶け込んでいくなら一つの塩味に変わっていくように、一つの仏さまのお慈悲に包まれて一つの如来様のみ教えに秩序付けられた人生というものを生きる人間に転換されていく。これを「衆水海に入って一味なるがごとし」といわれたのです。

 

2006年11月20日
お内仏報恩講 大峯 顕先生

☆ 仏智の不思議

私たちは自分で生きているように思っておりますが、全て生かされいるのです。いのちによって生かされている。私がいのちを持っているのでなくて、いのちが私を持っているのです。今の日本人のほとんどが自分がいのちを持っていると思っているでしょう。いのちを自分の所有物だと思っている。だからあと何年しか生きられないだとか、自分の貯金が減っていくように思っている。
本当の真理の教えを聞いたらそうでなくて、いのちの方がわたしを持っていてくださる。私よりも大きな無限大のいのちだということです。いのちは私という小さな固体の中に納まりきらない。その大きな無限のいのちのことを阿弥陀さま、南無阿弥陀仏というのです。
阿弥陀さまとは何ですか?といったら、私を生かしているいのちだと、私はそれによってここに生きている。それがなかったら私は生きることも死ぬことも出来ない。それを「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」と、言っているのです。
「往生をばとぐるなり」とはどういうことかといいますと、そのいのちに成るということです。いのちを失うことではなくて大きないのちになることを「往生をとげる」と言う訳です。仏教を聞きませんとね、間違って「往生」とは「ダメになることだ」と思って使われていますが、もともと「往生する」ということは「心配ない」ということです。
他力本願でも同様で、他力とは如来さまの力です。私の力でない。その他力によって生かされている。ところが他力本願は「他人のふんどしで相撲を取る」、自分が怠けていても、他人が何かしてくれる。これを他力としている。そんなこと親鸞聖人はひと言も仰っていない。「他力とは如来の本願力なり」とあるように、その人の力ということではないのです。人間の力でないのです。如来の本願力によって私がここに居らせてもらうのです。それがなかったら私は居る所がないのです。本願力とはその中で私が生まれ、その中で死んでいく、広大無辺な大きな無限大の場所です。どんな人もその場所を出ることはない。出ることは出来ない。それが如来さまに摂取されているということです。如来さまに抱かれているということです。でもそれがどうして分かるかといいますと、やはり仏法を聞かないと分からない。抱かれているんだけれどもそれが分からないまま死んでいく人がほとんどになりましたね。このごろの人は、「もうアカンわ」といって死ぬんです。仏法の無い人は「もうアカン」「生きようと思ってももうアカン」「精も根も尽き果てた」「もうどうにでもなれ」といって死んでしまう。まあ、もったいない話ですね。自分が今日までその中に生かされていたいのち、その大きないのちのことをとうとう知らずに死んでしまうのです。
人間といったってあてになりません。顔は人間の顔をしていますが、これが分からなかったら人間といえませんよ。猫や犬は如来さまに生かされているということがこの世では分からないと思います。如来さまに抱かれているということが分からなかったら、たとえ二本足で立っていようとも猫と犬と同じじゃないですか。畜生じゃないですか。人間は格好ではないですよ。心です。如来さまのご恩が分かるか分からないか。それを感じるか感じないか。感じる心が無かったら人間といえない。そのことを感じたらもう助かるんです。
「ああ、そうか、如来さまに生かされてたんだ」と、「私は死ぬと思っていたけどそうでなかった。浄土に生まれていくんだ」と、「私は今日までそんなこととはつゆ知らずに、死なぬように、死なぬようにと思ってきたけれども、そんなこと心配する必要もなかった。私は死なないいのちの中に必ず生まれて行くいのちであったんだ」と、そういうことに気がついた。それが信心を得た。信心獲得。信心を得たとは、それに気付くことです。何かを信じ込むということではないです。今まで何も思わなかった。ああそうだったかと気付くことを信心というのです。気付くということは目が覚めるということです。開眼ですよ。目をつむって、わき目も振らずよそ見もしませんというのは信心とは違います。
私はこの人生終わったら暗い墓場に行くのでなくて、如来さまにならせていただくんだと知らせていただく。そのことを誰が言っているのかというと南無阿弥陀仏の六字の名号がそのことを絶えず語りかけてくださるのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏というのは「お前死なんよ」「おまえは仏になるんだよ」「何の心配も無いんだよ」と、それが如来様が私のいのちを約束してくださっている言葉です。それが、気がついた、目が覚めたということです。生きている間に目が覚めないとダメなんです。だからもう余り時間が無いのです。私が言っているのではなくて、仏様が仰るのです。お説教をお坊さんの意見だと思って聞いていてはダメなんです。こんな聞き方ではいくらたっても性根が入らない。つい人間が言っていると思うんです。それで批評するんです。「あのお坊さんはちょっと頼りないな」とか、「あのお坊さんはよく勉強しているからあれは本当かもしれないな」とか、これは仏法聴聞でなくて人間の意見を聞いているのです。人間の意見をどれだけ聞いても助かりません。
「お前を助ける」という阿弥陀さまの直々の言葉を聞かなければ助かりません。それが聞こえたということが助かったということです。この頃、目を開かないで死ぬ人が多いですね。だいたいお寺に参らないですね。参らなかったら目を開くチャンスが無い。人と相談してもダメです。「私死んだらどうなるのでしょうか?」と言って、どんなにこの世のあらゆる経験を積んだ人に聞いても分かりませんよ。親に聞いても、先生に聞いても、安倍首相に聞いても分かりませんよ。
如来さまの心というものは万人に普遍的に共通ですから、信心の人の心は違わないのです。親鸞聖人と法然上人と学徳の上においては大変な違いがありますが、信心というのは学問や勉強ではなくて、如来さまの心をいただくことだから、同じ如来さまの心をいただいくという点においては誰の信心、彼の信心という違いは無い。ただ一つ。信心というのは人間のこころと違います。人間の心に来てくださった仏さまの心です。だから信心は不思議なんです。
信心の心以外の時の人間の心というのは朝から晩までろくでもない心です。欲が多い。凡夫というは、欲が多く怒り腹立ちそねみねたむ心多くひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずというのが私たちの心です。

門徒でも一回もお寺に来ない人もいます。またお寺に来ても賢こぶって、批判的にお説教を聞いていてはダメなんです。仏さまが「救う」といったら「はいありがとうございます」と、こういう風に聞かないとお浄土には行けません。あほだから行けないのではないです。無知だからお浄土へ行けないのではありません。私は偉いと思っているから行けないのです。龍樹菩薩は言っています。「あなた方が仏教が分からないのは、あなた方が無知だからではありません。あなた方の中に、私は知っているという気持ちがあるから仏教が分からないのだ。」と。これは真理ですよ。だからお寺に参らない人は自分は偉いと思っているのです。
如来さまは、十方の衆生を必ず仏にすると誓われた。私の話と思ってお聞きになられたらダメなんですよ。私は凡夫です。助けてもらう方です。私はお聴聞によって「助けてもらう」ということを分からせてもらったのです。それでそのことを皆さんにお伝えしているわけです。

2006年12月01日 法話
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