いろはうた・羅刹と雪山童子

* いろはうた

いろはにほへと ちりぬるを( 色は匂えど 散りぬるを )
匂うがごとき 喜びや楽しみもすぐ散ってしまう
わかよたれそ つねならむ( 我が世誰ぞ 常ならむ )
人の世の移り変わりを誰がとどめられようか
うゐのおくやま けふこえて( 有為の奥山 今日越えて )
今日、悟りを完成して苦しみの山々を超えることができた
あさきゆめみし ゑひもせす( 浅き夢見じ 酔ひもせず )
浅はかな夢を見ることも快楽に酔うこともすでに無くなった

いろは歌は四十七のかな文字を使って作られている歌で、文字を習得する手習い歌として、近代に至るまで長く使われてきました。七五調四句からなる今様形式の歌です。
古くから弘法大師空海の作と伝えられていましたが、その当時に今様形式の歌が存在しなかったなどの理由によりその可能性はきわめて低く、もう少し後の時代に作られたようです。
仏教の世界観・人生観を歌った内容で『涅槃経』の中の無常偈として知られている「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」の意味であるともいわれています。
いずれにしてもこのいろは歌が手習い歌として、日本人の心に仏教への親しみを持たせる大きな役割を担ってきたことでありましょう。
今一度、現代に生きる私たちはこのいろは歌の内容である有為から無為へ、迷いから悟りの世界へという仏教の根本を再認識し、次代へ伝えるということが非常に大切であると思うのです。
『涅槃経』の「無常偈」は、「羅刹と雪山童子」の物語としてお釈迦様の過去世の話として語られます。それをご紹介します。

*羅刹と雪山童子 (らせつとせっせんどうじ)

昔、雪山(ヒマラヤ)にひとりの求道者がいた。彼は雪山童子(せっせんどうじ)と呼ばれ、衆生利益(しゅじょうりやく)のために自分を犠牲にして顧みず種々の苦行を修めていた。
しかし、帝釈天(たいしゃくてん)はそんな雪山童子の法を求める態度に疑いを持っていた。悟りを開こうとする者は多いが、ほとんどの求道者はわずかな困難に出会うとたちどころに退転してしまう。それは、ちょうど水に映った月が水の動くままに揺らぐようである。多くの者は鎧や杖で身を固め、物々しいいでたちで賊の討伐に向かうけれど、いよいよ敵陣に臨むと恐怖に駆られて退却する。同様に悟りを開こうと固い決意をした人も、生死の魔軍に出会えば求道の心を失う。雪山童子の苦行は本物なのだろうか。
車に車輪がふたつあれば運搬の用に立つ。鳥に双翼があれば空を飛べる。同様に修行者も、戒を保つだけでなく、正真の智慧がなければ悟りに到ることはない。はたして、雪山童子が修行を完成できるだけの人物であるかどうか試してみよう。
そう思った帝釈天は、見るも恐ろしい羅刹(らせつ=鬼)に姿を変えると、天上から雪山へ下ってきた。そして、雪山童子の間近までやって来て、立ち止まると、過去世の仏が説いた偈文(げもん=詩句)の半分を声高らかに唱えた。

諸行無常 (しょぎょうはむじょうなり)
〔世界中のものはみなどんどん変化してゆく。山も川も町も家も身体も心も。〕

是生滅法 (これしょうめつのほうなり)
〔子どもは大人になり、大人は年をとり、あらゆる存在は変化してゆく。〕

羅刹は偈文の半分を唱え終わると四方を見回した。これを聞いた雪山童子は大いに喜んだ。それはまるで、深 山で伴とはぐれた旅人が恐怖とともに闇夜を彷徨ったあげくに、再び伴と出会ったような思いだった。喉の渇いた人が冷水に出会ったようでもあり、長く病床にある人が名医に逢ったようでもあり、海に溺れた人が船に出会ったようでもあった。雪山童子は辺りを見渡したが、恐ろしい羅刹以外は誰もいなかった。
よもやとは思ったが、童子は羅刹に訊ねた。
童子:「大士よ、あなたはどこで過去の仏の説いた偈文を聞いたのでしょう。その偈文は過去・現在・未来の三世に渡る仏の教え、真実の道です。世間の人間でさえほとんど知ることのない教えです。本当にどこでその偈文を聞いたのですか。」
羅刹:「出家者よ、そんなことを聞いても無駄だ。私は、もう幾日も食べ物が手に入らないので、飢えと乾きで心が乱れてでたらめを言ったのだ。」
童子:「大士よ、もし残りの偈文を説いてくれるならば、私は終生あなたの弟子になります。先ほどの偈文だけでは字句も不完全だし、義も尽きてはいません。どうか残りの偈文を教えてください。」
羅刹:「出家者よ、私は飢えて疲れているから、説くことができないのだ。」
童子:「大士よ、あなたは何を食べるのですか。」
羅刹:「私の食べ物は、人肉だ。飲み物は、人の生き血だ。」
童子:「大士よ、話は分かりました。残りの偈文を聞くことができたら、私はこの肉体をあなたに差し上げましょう。たとえ天寿を全うしても、どうせ、私の死体は獣か鳥に食われるだけです。しかも、食われたからといって何の報いがあるわけでもありません。それならば悟りの道を求めるために、この身を捨てる方が良いでしょう。」
羅刹:「では何か。わずかな偈文のために肉体を捨てようと言うのか。しかし、そうは言っても誰も信じないだろう。」
童子:「あなたは無智ですね。瓦の器を捨てて七宝を得ることができるなら、誰でも喜んで瓦を捨てるでしょう。」
羅刹:「お前が本当にその身を捨てるというなら、残りの偈文を説いてやろう」。
雪山童子は羅刹の言葉を聞いて、身につけていた鹿皮を脱いで羅刹のために法座を設け、
童子:「大士よ、どうかここにお座り下さい。」
と言うと、合掌してひざまずいて一心に残りの偈文を求めた。羅刹は、厳かに残りの偈を説いた。

生滅滅已 (しょうめつめっしおわりて)
〔身をわずらわし、心をまどわす煩悩のとらわれを離れて〕

寂滅為楽 (じゃくめつをらくとなす)
〔清らかで静かな仏さまのような心になるのは本当に楽しいことだ。〕

こう説いてから、羅刹は約束通り雪山童子の肉体を求めた。
「出家者よ、お前はすでに偈のすべてを聞いた。願いはかなえられたのだから、約束通り私に肉体を施してくれ。」
雪山童子は覚悟の上のことだから、肉体を捨てることに何のためらいもなかった。しかし、このまま死んでしまっては他の人々のためにはならない。そこで、辺りの石や壁、道や樹木に、手当たり次第にこの偈文を書き留めてから、死後に身体の露出することを懼れて衣服を整えると高い木に登った。そして、羅刹との約束を守って地上へと身を投げた。
ところが、雪山童子の身体がまだ地上に落ちないうちに羅刹は帝釈天の姿に還り、空中で童子の身体を受けとめると地上に置いた。
時に帝釈天を初め、諸天の人々は足下にひれ伏して童子にこう言った。
「あなた様は無量の衆生を利益して、無明の闇の中に大法の炬(たいまつ)を燃やそうとする以外には何も求めようとしない。あなた様こそは真の菩薩です。そんなあなた様を苦しめたのも、ただただ仏の大法を愛すればこそです。どうか私の懺悔をお聞き届け下さいまして、未来に悟りを得られた暁には、お救い下さいますようお願い致します。」
半偈のために身を捨てた求道者の雪山童子は、後の世のお釈迦様である。
またこの物語にちなんで、「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」を、雪山偈と呼び慣わしている。

(涅槃経第十四)
雪山童子の姿は親鸞聖人の姿とも重なって仰ぎ見ることが出来ます。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」と、ご和讃されるように真理のためならば身命をも捨てるという、私たちの聞法の心構えを教えて下さっています。

2006年04月01日 法話
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