2月15日はお釈迦様のご入滅の日(涅槃会)です。
奈良国立博物館には平安時代・鎌倉時代の重要文化財の涅槃図があります。
横に臥せて休まれたお釈迦様のまわりを、お弟子たちをはじめ、天人や菩薩さま、鳥や獣に至るまでありとあらゆるいのちあるものたちがお釈迦様を前にして嘆き悲しんでいる姿が描かれています。
お釈迦様のご遺言といわれている尊いおことばがあります。
それは、「自灯明 法灯明」といわれるものです。
「自らを灯(ともしび)とし、よりどころとして、他を灯とすることなかれ。法(ほう)を灯(ともしび)とし、よりどころとして、他を灯とすることなかれ。人生は無常であるから、怠ることなく勤め励めよ。」と、悲しまれるお弟子たちに話されたということです。
私の人生は、私自身で歩んでいかなければならない。誰も代わってくれるものはない。その人生の根底をなす教えが「法」といわれるお釈迦様の説かれた教えである。すなわち、お釈迦様の説かれた教えを人生の土台として、この人生を自分自身で歩んで行きなさいということです。
そこで、先ず大切なことは、家の宗教である浄土真宗をしっかりと学ぶということです。宗祖親鸞聖人は自らの歩みを「必ず最勝の直道に帰す」と言い切られました。それはお念仏の道こそが私にとっての最高の人生の道であるということです。
私自身が歩むことになれば現実問題として一本の道しか歩むことは出来ません。それなのに、日本の宗教人口は日本人口1億2千万人に対し2億人を越えるといわれます。重複して何らかの宗教にかかわっているということでしょう。
私の人生は、「人生は苦なり」といわれるようにままならず、難しく、わずらわしい、限られた、自分の思い通りに行かない人生です。そんな人生において間違いのない確かなものはお釈迦様のお悟りのことばです。
南無阿弥陀仏とは「あなた一人を心配している阿弥陀という親がここにおるよ」という名のりなのです。「南無阿弥陀仏、心配することはない。この阿弥陀が常に見護っているから、自分の出来る精一杯を尽くしたらいいのだよ。」と見護られている世界に気付かせていただくのです。この確かな阿弥陀仏(親)のはたらきに護られて不確かな人生を力強く歩み続けることが出来るのです。そこを親鸞聖人は「最勝の直道」といわれたのです。自分の歩むべき道をしっかりと定めることが大事なことです。そのことをお釈迦様は「自灯明 法灯明」といわれたのです。
「今なぜ仏教か」
作家 青木新門 先生
『本願寺新報』 2006年(平成18年)1月1日号より
*人間中心の思想生活の中で
今日の我々は、ヒューマニズムという人間中心思想で構築されたパラダイムの中で生活している。そのことは明治以来、西洋文化を積極的に取り入れ、西洋近代のものの考え方によって養われてきた結果といえる。例えば、こんな少年の詩がある。
ぼくは今日学校の帰りに トンボをつかまえて 家に帰ったら
お母さんが かわいそうだから はなしてあげなさいと云った
ぼくはトンボをはなしてやった
トンボはうれしそうに 空高く飛んでいった
それからぼくは台所へ行くと
お母さんがゴキブリをほうきでたたき殺していた
トンボもゴキブリも昆虫なのに
*人間の自我を是認する宗教
この少年の眼には差別がないが、母親は人間中心主義が身についている。人間に都合のよいものは可哀想と思うが、人間に都合の悪いものはたたき殺す。たたき殺しても痛みも感じない。
人間中心主義(ヒューマニズム)を基盤とした民主主義を錦の御旗に掲げイラクへ侵攻したブッシュ大統領の眼にはフセインはゴキブリに映っていたに違いない。己の信じる思想でトータルデザインされた台所にゴキブリが現れればたたき殺すしかない。
また「聖戦」を是とするコーランに従ってテロを行うイスラム原理主義者たちも、異教徒はゴキブリに見え、たたき殺しても痛みも感じないことだろう。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、根は一つで、それら一神教に通底しているのは人間中心の思想、即ち人間の自我を是認して成り立っていることである。自我を是認するということは三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を容認することでもある。
*人間存在を照らす仏教の眼
仏教は無我を前提として三毒を否認する。
生きとし生けるものの生命のつながりを説くのが仏教の根本思想でもある。そのことを象徴的に表しているのが、釈尊入滅の際、人間と共に象やライオンや孔雀や蛇まで悲しんでいる様子が描かれている釈迦涅槃図であろう。西洋の宗教界がに自然の動物が登場することはまずない。たまに描かれていても人間に飼い慣らされた首輪をつけたペットの猟犬か牧畜の羊である。
人間の幸せを近代化に求め、地球環境を破壊しながら大量破壊兵器を保有して自我を主張する思想に人類の未来は託せない。西洋の自我中心の思考とは正反対の方向から人間存在を照射して地球は一つの生命体と気づかさせる仏教の視座が、今日ほど求められている時はないと云える。