天台宗開宗1200年記念「最澄と天台の国宝」展が京都国立博物館で10月8日から11月20日まで開催された。来年(2006年)3月28日から5月7日まで東京国立博物館で開催予定である。素晴らしい展示品の数々であった。その中に、最澄直筆の『山家学生式(さんげがくしょうしき)』がある。その中に下記の文章がある。
「国宝(こくほう)とは何物(なにもの)ぞ。宝(たから)とは道心(どうしん)なり。道心有(あ)る人(ひと)を名づけて国宝となす。ゆえに古人(こじん)いわく、径(けい)寸(すん)十枚(じゅうまい)これ国宝にあらず。一隅(いちぐう)(を守(まも)り)、千(せん)(里(り))を照(て)らす、これすなわち国宝なり」
<意味>国宝とは何か。宝とは悟りへの道を歩む心である。その悟りへの道を求める心のある人を国の宝というのである。先人が言われている。金銀財宝(径寸)が国宝ではない。家庭や職場(一隅)を守り、地域社会・世界をも視野に入れて(千里)仏法を流布(るふ)する人こそが国宝である。
人間としてこの世に生を受け、仏法の薫る家庭に育てられ、今の私の仏縁はどの程度のものか?真に国の宝となるべく仏道を歩んでいるか?自問自答すべきでありましょう。
「悟りを求める者が学ばなければならない三つのことがある。それは戒律(かいりつ)と心の統一(定(じょう))と智慧(ちえ)の三学である。
戒とは何であるか。人として、また道を修める者として守らなければならない戒(五戒①不殺生②不偸盗③不邪婬④不妄語⑤不飲酒)を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)の入口を守って、小さな罪にも恐れを見、善い行いをして励み努めることである。
心の統一(定(じょう))とは何であるか。欲(貪り)を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入ることである。
智慧とは何であるか。四つの真理を知ることである。それは、①これが苦しみである。②これが苦しみの原因である。③これが苦しみの消滅である。④これが苦しみの消滅に至る道であると、明らかに悟ることである。この三学を学ぶものが、仏の弟子といわれる。
驢馬(ろば)が、牛の形も声も角もないのに、牛の群の後ろからついてきて、わたしも牛であると言っても、だれも信用しないように、この戒と心の統一(定) と智慧の三学を学ばないでいて、わたしは道を求めるものである、仏の弟子であると言っても、それは愚かなことである。」
(『仏教聖典』 仏教伝道協会より)
私は驢馬(ろば)になっていないか反省すべきでありましょう。
先月の法のたよりの『法句経』のことばに「戦いで 百万の敵に勝つ人よりも ひとりの自己に克(か)つ人が まことに最上の勝利者よ」ということばがあった。が、自己に克(か)つとは、三学を修めることである。この前提なくして仏道はないのであるから浄土真宗も然りである。
三学を学びつつ、完全に修めることのできないことを慚愧(ざんぎ)する。完全に修めることのできないものをこそ弥陀の慈悲で抱(いだ)き取って救うという南無阿弥陀仏のよびごえを尊く讃嘆するのである。
そこのところを『法雷』2005年11月号P3に、
「大信心は、凡夫が「分かった」とか、「分からぬ」とかいったところにはない。唯(ただ)これ如来の本願力である。しばらく知(ち)解(げ)分別(ふんべつ)を離れて、自分の罪業の深きことを静思(せいし)するがよかろう。親鸞聖人は御自身の罪業に泣いて、本願の無碍(むげ)道(どう)を仰(あお)がれた。」と、稲垣瑞劔先生は示しておられます。
広島出身のご門徒から父がいつも口ずさんでいたうたですといって教えてもらったうたです。
ゴオン ゴオンと 鐘さえ鳴るに ご恩知らずの 恥ずかしさ
今年も残りわずか。淨教寺の「除夜の鐘」で慚愧と讃嘆の新年を迎えさせてもらいましょう。
余録 「一隅を照らす」について
これは、有名な最澄の『山家学生式(さんげがくしょうしき)』のことばである。上の引文を見てもらうと「一隅(いちぐう)(を守(まも)り)、千(せん)(里(り))を照(て)らす、これすなわち国宝なり」と読んでいる。「を守り、千里」が余分なことばとして挿入されている。
写真を見てもらうと、2行目の下から4番目の字は「千(せん)」と読める。
「一隅を照らす」の場合は「干(かん)」と見ていたのである。
中国の古典には「照千里 守一隅(千里を照らすものとなれ、一隅を守りながら)」ということばがある。中国仏教協会からもそのように解釈するとの回答があったそうである。
天台宗開祖の最澄の偉大さが一層引き立つ読み方である。比叡山で20年間学ばれた親鸞聖人の「世の中安穏なれ、仏法弘まれかし」のおことばの中にその精神の尊さを見出すことができる。