住職 島田 和麿
ただひとたびの人生航路、荒海に船出して、羅針盤はあるか?
「自分だけが自分の主体(あるじ)
そのほかに主体(あるじ)とてなにあろう
自分をととのえ おさめてゆくとき
そこに得がたい 主体(あるじ)を見いだす戦いで 百万の敵に勝つ人よりも
ひとりの自己に克(か)つ人が
まことに最上の勝利者よ摂取光中 弥陀のふところ 瑞剱
人にいって きかせるように 自分がまず行えば
自分もととのえられてゆき 人をもおさめることとなる
まことに自分自身こそ なによりもととのえ難いもの」仏陀(おしゃかさま)のことば『法句経』より
み教えは、世の中のため、人のため、修養のため、まして教養のためのものでもありません。
わたくしたちは、稀にも受けがたい人としての身を受け、尊いみ教えが聞こえてくる国に生まれさせていただいております。
人生の目的は、このわたくしが迷いから解き放たれる・・・・・さとり、めざめの世界に到達するところにあります。ことばを変えていえば「自己を救済する」ことにあります。
仏教の目的は、私の人生の解決なのです。
稲垣瑞劔師は、『法雷』2005年10月号(P31)に
「万劫(まんごう)にも 得がたき 人身(にんじん)を受けたからには 先ず 自分一人(いちにん)を救うべし。是が人生の目的、最大の偉業である。本願力に救われて本願力を弘宣するのも本願力である」
と、述べておられます。
親鸞聖人は、み教えに出遇ったよろこびを『御本典(教行信証)』に
「大悲の願船に乗じて 光明の広海に浮かびぬれば
至徳の風静かに 衆禍の波転ず」
<意味>本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮ぶとこの上ない功徳の風が静かに吹き、すべてのわざわいの波は転じて治まる。
と記され、『歎異抄』には
「弥陀五劫思惟の願を よくよく案じみれば
ひとえに親鸞一人がためなりけり」
<意味>阿弥陀如来が五劫という長い間、思案に思案を重ねて誓われた本願は、よくよく考えてみると、ただただこの親鸞一人のためでした。思えば数知れない罪業を持ったこの身を助けたいばかりに誓われた本願でありました。なんとかたじけないことでありましょうか。
と、述懐されておられます。
まことにひとごとでなく、まったくわたくし自身のこと、わたくしのための浄土真宗のみ教えといただくべきでありましょう。
その個(ひとり、ひとり)のよろこびが普遍化されてゆくところ、天下和順・日月清明(しょうみょう)の暁が世に現出することでありましょう。
「金剛心」より 稲垣 瑞劔先生
月にむら雲、花にはあらし、とかく浮世はままならぬ。無常火宅の人生、到るところ唯だ愁嘆の声のみを聞く、また何の楽しみをか求めん、大廈高楼(たいかこうろう)に坐して、この世の栄華を夢みつつあるものは仏法の楽しみを知らず。人の情けの薄衣、浮世の風の身にしみて「ああ人生は苦なり」と悟った人のみが仏法の真価を味い得るのである。
無常迅速、生死(しょうじ)の事(こと)大なり。