9月21日のお彼岸の法座に、オーストラリアの浄土真宗僧侶が2名参詣されました。ここにご紹介いたします。一人は、ジョン・パラスケボッポラスさん(写真左)といいます。4年前に淨教寺に来られて「浄土真宗に出遇う」と題してお話くださいました。もう一人は、グレッグ・ヒースコートさん(写真中)といって、今回初めて来られました。通訳は、シンガポール出身の浄土真宗僧侶・王 仁興(オウ・ジンコウ)さん(写真右)です。
ジョン・パラスケボッポラスさん
4年ぶりに淨教寺に参れたことは私の大きな喜びです。
私は、オーストラリアの首都であり、奈良市の姉妹都市であるキャンベラから来ています。お彼岸に参れたことは格別の喜びです。秋分の日は夏と秋のちょうど中間の季節です。ここに私は「中道の喩え」(お釈迦様は楽器の弦を喩えにして、強く張りすぎても、緩すぎても音が出ません。どちらにも偏らない一番いい音の出る状態を心がけるように日々の生活も慎みましょう。という教え)を見出します。これは日本に来る絶好の季節と感じます。西洋人にとって浄土真宗と出遇うことはとても難しく多くの努力や経験が必要とされます。これは多くの日本の方々と大いに違うところです。親鸞聖人の教えとの出遇いは、真理への邂逅と精神的な救いがあったから、それまでの苦労に値するものでした。最後に、日本に来ることは真宗の信仰をはぐくむことができる喜びとなります。オーストラリアでは、我々は日常、真宗の伝統から離れているので、日本に来ることはいつも楽しみにしています。ありがとうございます。
グレッグ・ヒースコートさん
淨教寺に参詣できて大変うれしく思います。実は私は一昨年、得度(お坊さんになる儀式)をする前にここに参りましたけれども、浄土真宗のお寺であると気付きながらも門の前を通っただけです。だから、今回は本堂の中に入って皆さんと会えたことを大変喜んでいます。西洋人は一般仏教の教えに触れて、それから浄土真宗に出遇う場合が多い。これは親鸞聖人のご生涯と同じであると思います。仏教は強い感銘を与えるけれども、普通の生活を送る一般の西洋人にとって、修行は難しいので、浄土真宗に最も親しみを感じます。オーストラリアでは、皆は個々に信仰しています。ですから、淨教寺のご支援のお蔭で国際真宗学会に出席することができ大いに感謝しています。また、国際真宗学会で世界各地から集った素晴らしい真宗教徒と出会えたのはとてもよい経験でした。皆さんのご親切に感謝いたします。ありがとうございます。
ジョン・パラスケボッポラスさんの法話「浄土真宗に出遇う」より
子供の頃から、人は何のために生きるのか?なぜ苦しまなければならないのか?といった質問をいくつも抱くようになりました。大学に進学することになったとき、私はごく自然に哲学を専攻しました。まず高名なプラトンやアリストテレスの説いたギリシャ哲学を学び、次にそれらとヒンズー教、仏教、道教などのアジアの思想を比較しました。いずれも奥深い思想だと思いましたが、最終的には、釈尊の思想に強く惹かれていきました。真実の教えを求める長く困難な旅に出ました。
初めは上座部(小乗)仏教に感銘した私でしたが、まもなくその限界に気付き、大乗仏教の豊かで複雑な世界に歩みを進めていきました。結局、聖道門を学んでわかったとこは、私には資質がなく、瞑想や正義を厳格に求める修行は果たせないということでした。そんなある日、日本宗教史の書物の中で、阿弥陀仏について書かれている部分を見つけました。
阿弥陀仏崇拝を説く宗派(天台宗など)についても勉強していましたので、阿弥陀仏を知らなかったわけではありませんが、阿弥陀一仏に帰依する独立した宗派があることは知りませんでした。私にとって、親鸞聖人は阿弥陀仏の真実のお姿を最も深く表した方でした。何よりも大切なのは、苦しむ民衆に向けられた聖人の温かいまなざしです。このめぐり遇いによって、私は迷いから解き放たれました。真理を求める長い旅路の果てに、ようやく真実の法に出遇ったのです。700年たった現代にも通じる普遍的な教えとはいったい何でしょうか。
人間の本性に対する聖人のまっすぐなとらえ方、それを告白する勇気に、まず私は感動しました。阿弥陀さまの誓願について述べられた聖人のお言葉は、煩悩の闇に迷い苦しむ凡夫へのもっとも深い思いやりにあふれていると感じました。私はいつも、真実の教えには、満たさなければならない条件が2つあると考えています。1つ目は、すべての人に開かれた道であること。2つ目は、迷える人々に向けられた仏様のもっとも深い願いと慈悲を伝える道であることです。上座部(小乗)仏教、大乗仏教を含め、広く仏教全体を学んでみて、私はこの2つの大切な条件を満たしうるのは親鸞聖人の教えだけだという結論に達しました。
だからこそ、この教えを日本だけでなく、世界中の人々に広めることが何よりも大切なのです。
仏法こそが人生でもっとも大切なものなのに、私たちは敢えてそれに目を向けようとしない、そう語る稲垣瑞劔先生の声が著書からはっきりと伝わってきました。先生の言葉はとても心に響きます。しかも、先生は仏教全体に見識が深く、それぞれの教えの大切な部分を浄土真宗の教えに集約して示してくださいました。そういう導き方に私はとても引かれました。私自身が何年も仏教全般を学んだ身ですので、浄土真宗に帰依するようになっても、余宗(浄土真宗以外の仏教)で説かれている大切な教えをおろそかにしたくないと考えていたからです。
最後に瑞劔先生の著書『安心(あんじん)』から、いくつかお言葉を引用させていただきます。阿弥陀さまのお心がもっともよく伝わる、心に響く言葉ですので、皆様とともに味わいたいと思います。
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)
煩悩あるまま、このままで、往生させていただくのである。
知ったこと、思おておることに、腰をかけたらいかん。
如来様がお慈悲で助けてくださるのである。
罪と死と地獄を忘れなさんなよ。そしたら参れる。
生(しょう)も死も、仏とともに旅の空。
信楽(しんぎょう)を願力(がんりき)にあらわし、妙果(みょうか)を安養(あんよう)にあらわさん。
たのみもせぬのに、先手をかけて、そのまま来たれと、喚(よ)び給(たも)う。