仏教の基本(三福)

『仏説観無量寿経』より
「彼(か)の清(きよ)らかなみ国(くに)を希(ねが)うものは、まさに三福(さんぷく)(三種の善い行い)を修(おさ)めねばならない。
一(ひと)つには、いわゆる世間(せけん)の教(おし)えにしたがって、親孝行(おやこうこう)をし、師匠(ししょう)と年長(ねんちょう)の者(もの)に仕(つか)え、慈(いつく)しみのやさしい心(こころ)をもって、むやみに生(い)きものを殺(ころ)さず、慎(つつし)んで十善(じゅうぜん)戒(かい)を守(まも)ることをいうのである。
二(ふた)つには、仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)の三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し、いろいろな戒(いまし)めを守(まも)り、行(おこな)いを慎(つつし)み、正(ただ)しくすること。
三(みっ)つには、悟(さと)りを求(もと)める心(こころ)を起(おこ)し、深(ふか)く因果(いんが)の道理(どうり)を信(しん)じ、大乗(だいじょう)の経典(きょうてん)を読誦(どくじゅ)してその旨(むね)を味(あじ)わい、他(た)の人々(ひとびと)にもそれを教(おし)え勧(すす)めること。
このような三種(さんしゅ)を、清(きよ)らかな行(おこな)いというのである。」
十善戒とは、
①不殺生(ふせっしょう)(生きものを殺さない)、②不偸盗(ふちゅうとう)(ぬすまない)、③不邪婬(ふじゃいん)(みだらなことをしない)、④不妄語(ふもうご)(うそをつかない)、⑤不悪口(ふあっく)(悪口を言わない)、⑥不両(ふりょう)舌(ぜつ)(二枚舌を使わない)、⑦不綺語(ふきご)(おべんちゃらを言わない)、⑧不貪欲(ふとんよく)(むさぼらない)、⑨不瞋恚(ふしんに)(怒らない)、⑩不邪見(ふじゃけん)(偏った見方をしない)三宝とは、
①仏(お悟りを開かれたお釈迦様のこと)、②法(お釈迦様の説かれた教え)、③僧(お釈迦様の教えをよろこぶ人びとの集まり)悟りを求める心とは、
解脱(げだつ)をいい、転迷(てんめい)開悟(かいご)(迷いを転じて、悟りを開く)の道を言います。「人生は苦なり(自分の思い通りに行かない人生である)。」ということは、自分に執着する煩悩が原因であります。その煩悩を消すことによって安らかな境地が見出されます。そのためには八つの正しい道を歩まなければならない、というお釈迦様の四諦(したい)八正道(はっしょうどう)のこころをいいます。
深く因果の道理を信じとは、善い行いには善い結果が表れ、悪い行いには悪い結果が表れるという厳粛な真理が厳然としてあるということを深く認識して行いを慎むことです。これらのことを日々の暮らしの中心において、
まずは自分自身がそのことを繰り返し自らに言い聞かせ実行するように努力することが大切です。その姿を家族のものが、縁ある方々が見て感化されていきます。

*お医者さんと病気とお薬
稲垣 瑞劔先生

南無阿弥陀仏のお薬をどうして飲むかと云うたらな、それは「聞くだけや」。聞いてみるというと、ああ阿弥陀様は親様やなあ、御親切な親様やなあ、私の地獄行きの病気が治る、煩悩が滅してしまうところの南無阿弥陀仏というお薬を作って、飲み方を知らんから、親が赤ん坊に薬を飲ますようにして、口の中へ入れて飲まして下さった。御親切な親様やなあ、と思われたら南無阿弥陀仏を戴いたことになるんや。南無阿弥陀仏のお薬を戴いたら地獄行きの病気が治って、久遠劫来造りに造った山ほどあるところの罪がみんな無くなってしもうて、消えてしもうて、そして地獄へ行く身が、この身このままお浄土へ参らせて戴く、こういう仕掛けにしてある。
それで、信心というものは、まあ第一に南無阿弥陀仏というお薬は結構なお薬やなあ、と思われたら信心戴いたのや。そのお薬を作って下さったのが、阿弥陀如来という親様、阿弥陀さんというお医者さんや。阿弥陀様というお医者さんは、親切な親様やなあ、と思われたら信心決定や。それ以外に、お浄土に参る道も、信心いただく道もあらへん。もうこれだけでもって、真宗の説教はな、云う事もなければ聞く事もないね。

(淨教寺会館テープ法話拝聴会より)

2005年07月01日 法話
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