「チームワーク」と「もったいない」

1月20日(木)午後1時半 定例法座初会 中西智海先生のお話より
ノーベル化学賞を2002年12月に受賞された田中耕一さんは私と同じ富山県の出身です。小さい頃は、本願寺富山別院の徳風幼稚園に通っていました。 この徳風という名前は、親鸞聖人の『教行信証』行巻に「爾れば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば至徳の風静かに衆禍の波転ず」とある「至徳の風」から付けられています。このご文の中の「転ずる」という言葉がありがたいのです。親鸞聖人は「煩悩」の左訓に「少なくなす、遅くなす、軽くなす」と示されています。全然なくなるのではなくて、物事の受け止め方の違った受け止め方ができる。すなわち、病気は嫌なこと。が病気をしてみて普段気がつかなかった方々のご恩や、病気のつらさを知ることが出来て、この病気をしなかったら知らずにいる世界を教えてもらった。そう考えると「病気もまた良し」と病気の見方が転ぜられる。そういう見方が出来るように自分が変えられていくことであります。
田中さんのおばあちゃんが偉い人で、別院の朝のお勤めにお参りされてその後、家のお仏壇で耕一さんを一緒にお参りさせ、それが済まないと朝食を食べさせなかった。ということです。ご飯のときも「いただきます」と言う、またその「いただきます」とはどういう意味かということをよく問いかけられたそうです。その答えとしておばあちゃんは「仏さまの目から見たら平等のいのち。そのいのちを許されていただきます」ということだよ。といつも耕一さんの頭をなでながら言われたそうです。そういう環境の中で育てられたのです。

 

*チームワーク

「私の頂いたノーベル賞は、もしも他の4人の志を同じくした仲間がいなかったらとてももらえる賞ではありませんでした。チームワークが頂いた賞でした。それが嬉しかったです。」と、富山弁で言っておりました。そこで私、チームワークという言葉を辞書で調べてみました。チームとは同じ心(志)で同じ事に当たる。つまり仕事に当たる。仏教では同心同事といいます。同じ仕事をするということはたやすいでしょうが、同じ心でとなるとなかなか難しいと思います。ワークというのは働くということですが、連帯感という意味もあります。雀が10羽集まったのを社会とか共同体とは言いません。社会の原型は、共同体、コミュニティという英語の訳ですが、人間の組織というのは元来、共同体とか社会といいます。秋に雁が飛行機よりも整然と列を作って飛んでいても、社会とは言わない。それは雁の群といいます。雀がたくさん集まっているのを群雀(ぐんじゃく)といいます。デイビッド・リースマンというアメリカの社会学者が「現代人は孤独なる群集である」と言っています。東京や大阪で地下鉄に乗ると洪水のように人が流れておりますが、本当に肩をたたきあって、確かめ合って同じ心でやっているという集まりでしょうか?団地に住んでいても隣の人と挨拶も交わさずに半年過ごすというような状態です。このような現代の状況の中でチームワークが頂いた賞が嬉しかった、同じ苦労をして同じ志で取り組んだことに対しての賞であるということを喜んでいるその姿勢がいっそう私の心を打ちます。その源流が徳風幼稚園、おばあちゃんのお育てにあるということです。

 

*もったいない

「もう一つは、私の薬を中心にした研究は、少し遠回りをしているということです。それは、一般的に調合しないような薬でも1つ1つの薬を抜け目なく順番に点検して、特色を調べないと次へ進みませんから遠回りと申すのです。桂馬飛びみたいに、ある薬を抜かして次へ行ってしまったら、抜かした薬がもったいないと思いますので遠回りをしたようですが、結果的にはそのことによってこの発見が導き出されたと言うことです。英語でスピーチしなければなりませんので、この「もったいない」という言葉を英語の辞書で調べましたが直訳できる単語はありませんでした。」と、語っておられました。そして、そのことを富山県に帰って話されて「世界に通じる英語にさえもない「もったいない」の心を教えてくれた徳風幼稚園や祖母や周りの人たち、ひいては富山の大きな自然の懐の中に育てられたことに心から感謝の念を捧げたい。」と、このチームワークともったいないの2つのことが非常に印象に残りました。
西本願寺大谷嬉子前裏方さまは「もったいない」の本当の意味は、「そのものそのもののいのちを本当に生かしきれない時に、おしいと思う心、惜しむ心」と書いておられました。
蓮如上人は、あるとき廊下を通られて紙切れが落ちていたのを見て「仏祖より頂戴したものを粗末にするとはもったいない」と言われて両手でおしいただかれたということです。このような精神が先祖代々伝えられてきた、たまものなのでしょう。

2005年02月01日 法話
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