報恩講とは、親鸞聖人のご法事です。何が報恩かと申しますと①親鸞聖人の御徳をたたえ、②御恩を偲び、③自分自身がお法(みの)り(教え)を喜ばせていただく身になることです。礼讃文(らいさんもん)のことばが身に沁みてまいります。
「人身(にんじん)受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに至心に三宝(仏・法・僧)に帰依したてまつるべし。」
(意味)
「生まれがたい人間に生まれさせていただき、聞きがたいお釈迦様・親鸞聖人の教えを聞かせていただき、まことに尊いことです。今この生涯で目覚めへの道(往生浄土)を歩むことがなかったならば、またいつこのような縁に恵まれるかわかりません。人間と生まれ、仏縁をいただいた今、仏・法・僧の三宝を拠り所として命の行方を明らかにする人生を送らなければなりません。」私たちの現実は、目先のことにとらわれて喜怒哀楽を繰り返しております。「自らの愚かさを知る人こそ 真の賢者である」とは、今月の掲示伝道(淨教寺山門横)のことばです。なかなか、私たちは自らの愚かさに気づくことが出来ません。しかし、他人の失敗や間違いはよくわかるものです。そして自分の間違いは認めることなく棚上げにして、相手を非難することに明け暮れる毎日ではないでしょうか。最近の事件で顕著なことは、加害者に反省がないということです。反省がないということは、人間の皮をかぶった畜生か、鬼であり、鬼畜と呼ばれます。
そんな私たちに自覚と反省を促すものこそ宗教であり、真の仏教・浄土真宗の教えです。
『涅槃経』には「慚愧(ざんぎ)無き者は名づけて「人」と為さず、名づけて「畜生」と為す。」とあります。また、聖徳太子の十七条憲法の第10条には「心の中の怒りを絶ち、表情に出る怒りを捨て、人が逆らっても激怒してはならない。人にはみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのこだわるところがある。(中略)私がかならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に凡夫にすぎないのである。(中略)このゆえに、他人が〔自分に対して〕怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。(後略)」(現代語訳)とあり、自覚と反省こそが人間にとっての一番すばらしい行為であることを教えて下さいます。それも自分勝手にするのではなく、常に仏・法・僧の三宝を基準に自らが見つめられていくのであります。
そこに生かされていることの実感が、芽生えるのでしょう。阿弥陀如来様は、無量寿、無量光として示されます。はかり知ることのできない「いのち」と「ひかり」をもってわたしを救うとはたらいて下さいます。そのことは私が救われると同時に、すべての生きとし生けるものが救われていくはたらきです。阿弥陀如来様のはたらきに抱かれて、一日一日を精一杯生き抜いていく力をいただくのです。その姿こそ報恩の姿でありましょう。