報恩講

報恩講とは、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人の御徳をおしのびする法事です。今年で親鸞聖人がご往生されて741年になります。本願寺では、平成23年(2011年)に宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えする予定です。親鸞聖人は、承安三年(1173)5月21日(旧暦4月1日)にお生まれになり、弘長二年(1262)1月16日(旧暦11月28日)に九十歳でご往生なされました。親鸞聖人の生・没年の覚え方として、お生まれになられた年は、一糸まとわぬ赤子として「ひとなみ」(1173)にお生まれになり、ご往生された年は、私たちにお念仏の道をお伝え下された尊い尊いお方「いちにもににもむにのひと」(1262)となってご往生されたのです。と、覚えたらよろしいでしょう。
親鸞聖人ご往生のあと、聖人を偲んで、毎月二十八日にお念仏の集まりが催されておりました。「報恩講」と呼ばれるようになったのは、聖人の三十三回忌の時からです。曾孫の覚如上人が聖人のご遺徳を讃えられて、25歳の時(聖人33回忌)に「報恩講式」をお書きになられました。それから「報恩講」と呼ぶようになり、毎年おつとめされるようになりました。

淨教寺の報恩講
淨教寺では、毎年10月18日、19日、20日の3日間お勤めしています。
18日午後2時の法要は、「大師影供作法(だいしえいぐさほう)」というお勤めの中で、「念仏正信偈」を皆様とご一緒に唱和いたします。その後「御俗章」を拝読し、午後3時ごろから講師の寺沢 忍先生よりご法話をお聞かせいただきます。午後7時からは、「往生礼讃 日没偈(にちもつげ)」をお勤めいたします。すばらしい旋律のお勤めですのでぜひご拝聴下さい。19日午前9時半からは「正信偈六首引」のお勤めです。お昼は庫裡でおとき(食事)を頂いて貰います。本堂で休憩していただき、午後2時からは大逮夜法要といって3日間の中心の法要で、雅楽の演奏も入り、近隣の僧侶の方々も出勤していただき、大変にぎやかな法要となります。お勤めは「奉賛大師作法」で皆さんと「正信念仏偈」をお勤めいたします。法話のあと、午後5時からもおときがあります。午後7時からは「往生礼讃」の「初夜偈」をお勤めいたします。20日午前9時半からは前日と同じ「正信偈六首引」です。ここで「報恩講」のお勤めは終わりです。午後2時からは、「秋の永代経法要」で、右余間の「御絵伝」をはずして、「別修永代経」を納めておられる方々の軸に架け替えて、「仏説阿弥陀経」のお勤めで法要が勤まります。毎回、当然ながらお勤めの後、ご講師のご法話がございますので、ぜひお聴聞下さい。特に夜7時からのお説教は、静かに心と身体に響き渡るような雰囲気ですので、ぜひ時間を設けてお聴聞下さい。
親鸞聖人のご生涯 (西本願寺発行「報恩講のしおり」より)
1、得度
親鸞聖人は、承安三年(1173)京都日野の里で誕生され、幼名を松若丸といいました。幼くして両親と別れられ、また源氏と平氏が相争う世情に世の無常を感じられて、すべての人々が救われる道を求めるために、わずか九歳の身で東山の青蓮院において出家・得度されました。
2、修行
名前を範宴(はんねん)と改められた聖人は、比叡山に登り二十年間の厳しい修行と勉学に励まれましたが、修行をつめばつむほど、あさましい心のすがたが目立つばかりで、人間の苦悩の解決はできませんでした。そこで、万人が救われる真実の道を求めて、29歳の時に山を降りられました。
3、法然上人との出遇い
悩みぬかれた聖人は、京都の六角堂にこもられ、そこで聖徳太子のお示しに導かれて吉水の法然上人(当時69歳)を訪ねられました。法然上人から「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とお聞きし、この人となら、たとえ地獄に落ちても後悔しないと言い切って、生涯の師とされました。
4、流罪
他力念仏の教えは、天災地変や源平の争いなどで世の無常と人生の不安を感じた民衆に広く信じられました。しかし、そのために他の宗派の間から妬みや非難が強くなり、遂に承元元年(1207)念仏禁止の弾圧が加えられて、親鸞聖人は越後(新潟県)へ、法然上人は土佐(高知県)へ流罪の身となられました。
5、越後
聖人(35歳)は、この流罪を契機として愚禿釈親鸞と名のり、恵信尼さまと結婚して、ご一緒に民衆の中に深く入ってお念仏の教えを伝えられました。流罪から5年を経過して、聖人は罪を赦されましたが、2年後の42歳のころ、妻子をともなって関東の常陸(茨城県)へむかわれました。
6、立教開宗
聖人は、下妻・小島・稲田などに住んで、20年にわたってお念仏の教えを伝えられました。聖人52歳のとき、稲田の草庵で書き始められた「顕浄土真実教行証文類」は、浄土真宗の根本聖典として不滅の光を放ち、この元仁元年(1224)を立教開宗の年と定めています。
7、帰洛
聖人は、62、3歳頃、家族をつれて京都へ帰られました。京都では、幕府による念仏禁止が続き、表だった教化もできにくく、住居も定まらないまま、後の世の人々のためにひたすら著述にはげまれました。わかりやすい和文にして「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」「尊号真像銘文」などを著されました。
8、晩年
聖人は帰洛の後も、関東のお同行に対しては、お手紙で念仏生活のありかたや教義を説かれました。またかわるがわる関東から訪ねてくるお同行には、親しく面接されました。しかし、晩年にはわが子の善鸞を義絶するという悲しい出来事もありました。84歳の聖人にとって、まことに断腸の思いであったことでしょう。
9、往生
弘長二年(1262)、善法院(現在の角坊(すみのぼう)別院)において、聖人はお念仏のうちにお浄土へ往生されました。90年におよぶご生涯は、まさに苦難の道でした。しかし、弥陀の本願を信じ念仏に生かされることによって、それがそのまま真実への白道であったのです。

「往生礼讃、日没の無常偈」
人間そうそうとして衆務(しゅうむ)を営み、年命(ねんみょう)の日夜に去ることを覚えず。
灯(ともしび)の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。忙々(もうもう)たる六道に定趣(じょうしゅ)なし。
いまだ解脱して苦海を出(い)づることを得ず。いかんが安然(あんねん)として驚懼(ぎょうく)せざらん。
おのおの聞け。強健有力(ごうごんうりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住を求めよ。

(意味)人間はあわただしく日常生活のさまざまな勤めをあくせくと営み、あっという間に月日が過ぎ去ってしまうことをなんとも思っていない。ローソクの火が風の中にあっていつ消えるともわからないように、次々と六道の世界を輪廻(生まれては死にを繰り返す)して、落ち着くところが無い。いまだに苦しみの世界を出て、悟りの世界に到ることが出来ない。どうして、日々をぼんやりと過ごし、驚き恐れずにいることが出来ようか?    おのおのよく聞け。健康でいられる時、自らつとめはげんで、一日も早く涅槃の悟りを求めよ。
という、中国の善導大師のお言葉を肝に銘じて、お聴聞を続けさせていただきましょう。

2003年10月01日 法話
pagetop