孔子観欹器図(こうし かん きき ず)

奈良・大和文華館所蔵の孔子観欹器図(こうしかんききず)をこの夏、滋賀のミホミュージアムで見る機会を得ました。下の写真をご覧ください。
雪村(せっそん)という室町時代の禅僧が描いた絵です。

図録の解説には、「孔子が欹器(きき)を見るさまをそのまま絵画化している。孔子が魯の国の桓公の廟を訪れた時、欹器に目をとめて、ためしに弟子に命じて水を注がせてみた。すると、満杯に水を入れた時には傾いて中の水がこぼれ、空にしても傾き、適度に入れるとまっすぐになって傾かなかったという。画中には左から満杯に注いだ器、ほどほどに入れた器、空の器が描かれている。人物だけでなく、器や器を支える柱まで丁寧に描かれており、彩色も明るい。」と、あります。

ここに描かれている「欹器(きき)」とは、「宥坐之器(ゆうざのうつわ)」ともいわれ、『荀子(じゅんし)』に見える言葉で、座右に置いてみずからの戒めとする道具のことだそうです。「宥」とは、「右」の意味。

孔子は、紀元前552年の生まれですので、お釈迦様と同時代の偉人です。
中国は春秋時代、魯(ろ)国の君主・桓公(かんこう)の廟(びょう)に孔子が訪れた時に既にこの「欹器(きき)」「宥坐之器(ゆうざのうつわ)」があったということが驚きです。先人のものの道理を見ていく洞察力の深さに敬意を払います。そして、それをこのような器具にして目で見せて自らの行いを戒めていく道具を作り上げていく技術力にも驚嘆します。

稲垣瑞剱先生の「自戒」の言葉を思い出します。

「人をそしらず、自慢(じまん)せず。卑下(ひげ)もせずして、おのが身(み)の
およばぬことを慚愧(ざんぎ)して、 真(しん)の仏弟子(ぶつでし) 念仏(ねんぶつ)行者(ぎょうじゃ)。
自覚(じかく)をもちて 教人(きょうにん)信(しん)。 この世(よ)の 栄華(えいが) 夢(ゆめ)と見(み)て 真(しん)の解脱(げだつ)を 望(のぞ)みつつ
日陰(ひかげ)おしみて 祖(そ)典(てん)をば 常(つね)に学(まな)ばん 大悲(だいひ)心(しん)」

空っぽの時には傾いていて、ほどよく水を入れると真っ直ぐになり、一杯に満たすとひっくり返るように作られた道具ですが、瑞剱先生の言葉にあてはめてみると、
「空っぽの時」というのは「私は何をやっても駄目なんだと、卑下している状態ではないでしょうか?」

また、「一杯に満たすとひっくり返る」というのは、「何でそんな事も出来ないんだ。と、人をそしり、自慢している状態ではないでしょうか。」

「ほどよく水を入れると真っ直ぐになる」ということが、先生の言う「人をそしらず、自慢せず。卑下もせずして、おのが身の、およばぬことを慚愧する真の仏弟子 念仏行者」の姿ではないでしょうか?

よくよく味わいたい絵であり、お言葉です。

2017年09月01日 法話
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