迎春
酉年の今年、淨教寺にトリに関連したものがあるか探してみました。
写真の楽太鼓の表面に描かれた鳳凰(ほうおう)と、山門の屋根の四隅を囲む鳥(これも鳳凰といわれています)がありました。
鳳凰は「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞鳥のひとつとされ、宇治平等院鳳凰堂や鹿苑寺金閣屋上の鳳凰像や、一万円札の裏面の印刷で目にすることがあると思います。
また、調べてみると鳳凰の一種で青いものを鸞(らん)と呼ぶそうです。また、鳳凰が鸞(らん)鳥(ちょう)を生み鸞鳥が諸鳥を生むとか、また鳳凰が歳を経ると鸞になるとか、君主が折り目正しいときに鸞が現れるともいわれ、鳳凰と区別することが難しく、どちらも尊い瑞鳥として珍重されたようです。
親鸞聖人の「鸞」
ご存知のように親鸞聖人のお名前は、天親菩薩の「親」と曇鸞大師の「鸞」をいただかれて「親鸞」と名のられたことが知られていますが、
「親」は「親さまござる、何のことないわィ!」の瑞剱先生の法語にも示されるように「阿弥陀さま」のことです。
また、「鸞」は諸鳥の源(みなもと)、阿弥陀さまが諸仏の本師法王であらせられるように、
「親」も「鸞」も阿弥陀さまの事を象徴している文字としてあじわうことができます。
親鸞聖人の廻心
しかるに愚禿(ぐとく)釈(しゃく)の鸞(らん)、建仁(けんにん)辛酉(かのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。 元久(げんきゅう)乙(きのと)丑(のうし)の歳(とし)、恩恕(おんじょ)を蒙(かぶ)りて選択(せんじゃく) (選択集) を書(しょ)しき。
意味:ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年(1201年)に自力の行を捨てて本願に帰依し、元久二年(1205年)、 源空上人のお許しをいただいて選択集を書き写した。
『教行信証』化身土巻
『心に響くことば』本願寺出版社の中で満井秀城先生は、このご文のこころを以下のように解説しておられます。
「建仁年間の辛酉の年は、建仁元年に相当し、西暦1201年で、親鸞聖人29歳の年になります。親鸞聖人が、九歳で得度され、二十年間修行と学問をされた比叡山を下りられ、法然聖人のもとに赴かれた年です。この時を、聖人は「雑行を棄てて本願に帰された」廻心の年とされているのです。
「雑行を棄てて本願に帰す」とは、価値観の大転換です。少しでも多くの善業を積み、それを仏さまに廻向して仏道精進に励むのが普通の理解でしたが、われわれ悪凡夫には仏さまに廻向できるようなものはなしえず、衆生の側から言えば「不廻向」、すべて如来さまからの「他力廻向」であるという大転換でした。そしてまた、八宗兼学(多くの教えを幅広く学ぶこと)が常識とされる総合大学でもあった比叡山の価値観では、いろんな行を多く積むことを目標として来ましたが、念仏の一行が、あらゆる諸行に勝るというのも、価値の大転換でした。それが、諸行・雑行を棄てて、念仏一行の本願に帰されたということです。(一部)」
恩師法然上人との出遇いの感動をつづられた貴いご文です。私たちも新年を迎え、尊きお念仏の教えに導かれ、教えに出遇えた感動を深めさせていただきましょう。