懐中名号

上の写真の左が、昨年の本堂修復落慶法要の記念に制作した「南無阿弥陀仏」の懐中名号。右の写真(B)が、今年の報恩講の記念品の「阿弥陀如来のご本尊」の懐中名号です。
Aの、「南無阿弥陀仏」とは、「心配することはない。必ず護り、救う」という阿弥陀さまの大悲の呼び声です。
「佛智・圓照」とは、その大悲のはたらきが、常に私を照らし包んでくださっているということです。
Bは「阿弥陀如来立像」のご本尊と浄土真宗の宗祖「親鸞聖人」(右)中興の祖「蓮如上人」(左)の懐中名号です。

「そもそも、懐中名号はどんな時に使うのですか?」というご質問をいただきますのでここでご説明いたします。
懐中名号の歴史は、戦時中にさかのぼります。もともとは「陣中名号」と呼ばれ、戦争に出兵される兵士の方が常に肌身離さず持ち歩くことができ、朝晩にどんな場所でも合掌・礼拝・勤行できるように考案されたもののようです。

現在では、いろんな使われ方がなされています。
1、お仏壇の中にご安置する。
2、学生さんや、単身赴任の方の住まいのお部屋の机の上や本箱等に置いて、毎日礼拝する。
3、旅行など出かける時にバックに入れて、いつでも礼拝できるように持ち歩く。

西本願寺でも、金仏壇という形式にとらわれることなく、ご本尊を身近にして礼拝していただくように「懐中名号」を手軽にご安置できるように「A4サイズのお仏壇」として提案していただいています。参考例を下に写真で掲載しておきます。もっともっとご家族で手軽にご本尊に親しんでいただきますようにご活用ください。

 

今月の法雷カレンダーのことば

 よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな   まことのこころなりけるを
善悪(ぜんあく)の字(じ)しりがほは   おほそらごとのかたちなり

(意味)「善」 「悪」 という字の意味さえも知らない人は、 ウソ偽りのない、みなまことの心をもった人であるのに、 その意味を、いかにも知っているかのような顔をしているこのわたし(親鸞)は、 嘘いつわりにまみれた姿である。

親鸞聖人の書かれた正像末和讃の最後に出てくるご和讃で、

是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ   このみなり
小慈小悲(しょうじしょうひ)もなけれども    名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり

(意味)ものごとの善悪も、 正しいことやよこしまなことの区別もつかないこの身である。 わずかばかりの慈悲さえもっていない身でありながら、 名誉や利益を求めて人の師となることを望むのである。

というご和讃とともに「三帖和讃」(浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃)の総括として、親鸞聖人が阿弥陀さまの大いなる慈悲の光に照らされ、つつまれた慚愧の思いの中からほとばしり出た赤裸々なおうたであります。

親鸞聖人88歳の時のご和讃です。阿弥陀さまにいだかれた中での、ご自身の姿を深く見つめ、慚愧し、自らを戒めておられる尊いお言葉であります。
こころしてあじわいたいものです。

人は、学び、知識を得ていくうえで、すぐ分かったつもりになってしまいます。また、知ったかぶりをして、他人より偉くなったような気分になります。まったくもって恥ずかしいことですが、浅学をひけらかして知らず知らずに傲慢になってしまいます。
また、人の上に立つつもりもなければ、名声を得るために人々を教え導いたわけでもないのに「先生」と言われると、悪い気分のしない存在(自分)がそこにいることに気づきます。御同朋、御同行の道をこころがけ歩ませていただきたいものです。

2016年11月01日 法話
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