梵鐘・平和の鐘

淨教寺の梵鐘(ぼんしょう)を撞(つ)かれたことがあるでしょうか?

梵鐘とは、寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)のことです。撞木(しゅもく)で撞き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴です。一般には除夜の鐘で知られますが、主な役割は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教行事の始まりを予告する重要な役割を果たします。朝夕の時報にも用いられる場合もあります。

淨教寺で梵鐘が撞かれる時は、
①毎月20日の定例法座、永代経法要・報恩講法要の一時間前。お勤め、ご法話があるお知らせの予鈴として撞きます。
また、②除夜の鐘として、12月31日の午後11時40分から撞きます。
そして、③平和の鐘として、8月6日午前8時15分からと、8月9日午前11時2分の広島・長崎の原爆投下時間に「戦争のない平和な世界を願って」鐘を撞いています。

②除夜の鐘と、③平和の鐘はどなたでも希望の方に撞いていただいていますので、是非ご参加ください。

淨教寺の梵鐘は、昭和38年鋳造となっています。戦後の鋳造です。
戦前には梵鐘があったのですが、戦争(第二次世界大戦)のために供出させられて、本意ではない道を歩んでいきました。梵鐘が人殺しの鉄砲や弾に作り替えられていったのです。残念なことです。
戦後、本堂再建で大変な中、昭和38年3月奈良県五條市の山本米三・志やう夫妻によって寄進され、再鋳造していただき、鐘の音を再び響かせることができました。
先人の方々の思いを胸に、あらためて鐘楼と梵鐘を眺めていただき、鐘の響きに耳を傾けていただければと思います。
間近で眺めますと、北側側面には、親鸞聖人の筆を模した「南无阿彌陀仏」と両脇に飛天が舞っています。
また、南側には撞木(撞き棒)があり、鐘の側面には「昭和38年3月 南都 浄教寺」と書かれ、両側に鳳凰が描かれています。

鐘の音にまつわる言葉がいくつかありますが、鐘の音の響きと共にあじわってみて下さい。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理をあらわす」(平家物語冒頭)

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規の俳句)

「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる」(童謡『夕焼け小焼け』作詞: 中村雨紅、作曲: 草川信)

 

法燈会(ほうとうえ)・7月のカレンダー

そして、平和の鐘の間の8月7日と8日は「法燈会(ほうとうえ)」という行事をしています。これは、境内に約1500個のローソクを置いて午後7時に点火をして、お盆を迎えるという「灯りの行事」です。是非こちらもご参詣下さい。

7月のカレンダーのご和讃は「高僧和讃・曇鸞讃」の一首です。

無碍光如来(むげこうにょらい)の名号(みょうごう)と
かの光明智相(こうみょうちそう)とは
無明長夜(むみょうじょうや)の闇(あん)を破(は)し
衆生(しゅじょう)の志願(しがん)をみてたまふ
(意味:無碍光如来の名号と、 その光明である智慧の相とが、 無明の長い夜の闇を破って、 人々の願いを満たしてくださる。)

無碍光如来の名号とは、南無阿弥陀仏のことです。光明智相というのは、如来の光明は物質ではなく智慧の形だからです。阿弥陀さまは名号であると同時に光明であります。私たちに語りかける言葉であると同時に、私たちの煩悩を照らす智慧の光であります。光と名が、如来さまが私たちを救うために、取ってくださった形です。如来さまは何によって私を救うかというと、ご自分を名乗り、私の名を呼ぶことによって救うのです。(中略)
阿弥陀さまの光に照らされますと、私と阿弥陀さまとのあいだの隔てがなくなります。阿弥陀さまに対して私がつくっている隔てを光明がなくしてくれるわけです。如来さまと私が同じ一つの場にあるような、明るくて平和な世界を開いてくれるのが光明のはたらきです。(中略)
如来さまを信じた、その瞬間にもう私たちは助かります。信の一念において、流れ去らない時、永遠の今というものをいただくわけであります。どれだけ長い人生であっても、信の一念がなかったら、空しい人生だし、反対にどんなに短い人生であっても、信があれば充実した人生になります。
「無明長夜の闇を破」すとは、空しく長かった時間がすでに克服されたということです。(中略)
「無明長夜」とはつまり、いつになっても時間と空間との中を出られないという存在の苦しみだと言ってよいと思います。阿弥陀さまは光明と名号となって、私たちをその無明長夜からつれ出してくださる。そして「衆生の志願をみてたまふ」のです。衆生の志願というのは、往生浄土の願いのことです。
私どもはなかなかお浄土に生まれたいとは思わないのです。むしろ、現世のいろいろな生の欲望を満たそうとしているのが私たちの現実の姿であります。菩提心や願生心は自分にはないというのが親鸞聖人の発見だったのです。(中略)親鸞聖人の原点は、そもそもその菩提心というものが凡夫の中にはないということです。その菩提心がないということを見抜かれた如来が、ご自分の菩提心を、凡夫に回向してくださったのです。それが他力の大菩提心、浄土の大菩提心であります。(中略)
南無阿弥陀仏の名号と阿弥陀さまの光明が初めて、私の心の目や耳を開き育てて下さるのです。つまり、私の本当の願いが何であったかということを知らせてくださるのです。私自身の中に隠されていた生命本来の願いを私が知らされるということです。そのことを「衆生の志願をみてたまふ」といわれているのだと思います。

(『浄土の哲学』 大峯 顕 著より)

2016年07月01日 法話
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