仏教讃歌 そんなときわたしはくちずさむ

そんなとき わたしはくちずさむ     観月浩道 作詞  中田喜直 作曲

1、陽(ひ)がのぼる さわやかな 朝のひかりが さんさんと 庭にふりそそぐ
かぐわしい みどりの風が わたしの頬(ほほ)を そっとなでる
そんなとき わたしはくちずさむ 「帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)」の お言葉を

2、陽がしずむ 音もなく しずかな夕(ゆう)べ 西の空 あかねにそまる
やすらかな いりあいの鐘(かね)が わたしのこころを ふるわせる
そんなとき わたしはくちずさむ 「南無(なも)不可思議(ふかしぎ)」の お言葉を

3、月の宵(よい) しんしんと 水面(みなも)に映(は)えて さらさらと 川がせせらぐ
ひそやかな 神秘(しんぴ)のとびらが わたしの願いを めざめさす
そんなとき わたしはくちずさむ 「心光(しんこう)照(しょう)護(ご)」の お言葉を

先月に引き続き「仏教讃歌」を紹介いたします。

歌詞の中の「帰命無量寿」「南無不可思議」「心光照護」のお言葉は、『正信偈』のご文です。毎日、朝夕にお勤めをしておられる、そのおつとめのお言葉が口をついてふっと出てくるときの状況を、朝、夕方、夜という時間帯の中で歌っています。

「帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい) 南無(なも)不可思議光(ふかしぎこう) ・・・摂取(せっしゅ)心光(しんこう)常(じょう)照(しょう)護(ご)・・・」

「人生は苦なり」です。うれしい時も、悲しい時も、辛く、しんどい時もあります。そんな時こそ、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏申し、「心配することはない、いつもあなたと一緒にこの人生を見護っていますよ。だから、あなたのできる精一杯を輝かせて生きぬいていってください!」と呼び声となって響き渡る阿弥陀如来のお慈悲を常に仰ぎながら一日一日を大切に過ごさせていただきましょう。

何気ない、日常の風景ですが、それが一番ありがたいということです。
非常事態になって、何事もない平凡な時間がありがたく見つめ、感じられるものです。
熊本地震では、大きな被害が出て今現在も多くの方々が避難生活をされています。直接的に手が差し伸べられなくても、5年前の東日本大震災の方々を含めて、各地域に思いを寄せ、その地域のものを購入する等の間接的ではありますが支援をさせていただきましょう。
永代経法要の5月20日(金)午後2時からの法要の後に「宗祖降誕会」「そんなときわたしはくちずさむ」の歌の発表がございます。ぜひ、コールピュアランドの歌声をお聴きいただきたいと思います。

 

今月の法雷カレンダーの言葉

信心(しんじん)よろこぶそのひとを
如来(にょらい)とひとしとときたまふ
大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり
仏性(ぶっしょう)すなはち如来(にょらい)なり
(法雷カレンダー5月号)

意味:華厳経にも、 信心を得てよろこぶ人は諸仏と等しいと説かれている。 それは、 信を得たそのとき、 往生成仏が約束されるので、 もう仏となったようなものだという意味である。 また、 涅槃経には、 大信心は仏性なり、 仏性は即ち如来なりとある。 如来回向の大信心は、 衆生の心にはたらく仏のはたらきである。 この仏のはたらきである仏性を、 如来ともいわれている。 この信心によって、 仏のさとりを得させていただくのである。

正定聚(しょうじょうじゅ)とは、 正(まさ)しく仏(ほとけ)になることに決(けっ)定(てい)している仲間という意味である。 かならず仏になるということは、 言葉をかえれば決して退転しないということであるので、 不退転ともいう。 親鸞(しんらん)聖(しょう)人(にん)はこのような正定聚(しょうていじゅ)は平生(へいぜい)の信(しん)の一念(いちねん)に与(あた)えられる利(り)益(やく)であるので、(、) これを現生(げんしょう)正定聚(しょうじょうじゅ)といわれた。

このようにかならず往生し成仏することに決定するのは、 臨終のときではなく平生(へいぜい) (ふだん) であるので、 これをまた平生(へいぜい)業(ごう)成(じょう)ともいう。
衆(しゅ)生(じょう)が阿弥陀仏(あみだぶつ)によって救済(きゅうさい)され、 現生(げんしょう)において与(あた)えられる利益(りやく)について親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、 文類(もんるい)聚(じゅ)鈔(しょう)に、 「また現生(げんしょう)無量(むりょう)の徳を獲(う)」 と示(しめ)され、 「信巻(しんかん)」 (末) には具体的に、 「現生に十種の益を獲」 といい現生十益が示されているが、 これらはいずれも正定聚に入るという利益(りやく)におさまるものである。

本願を疑いなく信ずるものは、阿弥陀仏の本願に随順し、 釈尊の教説に随順し、 諸仏の教意に随順するものであるから、 真の仏弟子といわれ、 また分(ふん)陀利(だり)華(け) (白(びゃく)蓮華(れんげ)) に喩(た)とえて、ほめたたえられている。 また金剛(こんごう)の信心(しんじん)をいただいた信心(しんじん)の行者(ぎょうじゃ)は、 次(じ)生(しょう)において必ず仏(ほとけ)になることに決定しているという意味で、 一(いっ)生(しょう)補(ふ)処(しょ)の菩(ぼ)薩(さつ)と同じ位(ぐらい)にある。 すなわち現(げん)に兜(と)率(そつ)天(てん)にあって、 次生(じしょう)にこの娑婆(しゃば)に出現(しゅつげん)して仏(ほとけ)となるといわれる弥(み)勒(ろく)菩薩(ぼさつ)と同(おな)じ等覚(とうがく)の位(くらい)であるというので、 「便同(べんどう)弥勒(みろく)」 (すなはち弥勒(みろく)に同(おな)じ)、 「次(し)如(にょ)弥勒(みろく)」 (次(つ)いで弥勒のごとし) といわれる。 等覚は平等正(しょう)覚(がく)の意味として仏の地位をあらわす場合もあるが、 ここでは 「等しい」 を 「ほとんど同じ」 という意味にとり、 仏のさとりである正覚とほとんど同じ徳をもつ菩薩の最高位をあらわして等覚というのである。 阿弥陀仏の救済をうけた人々を 「如来とひとし」 という場合の 「ひとし」 というのもこの意味で、 念仏者の絶対の尊厳性を示された言葉である。

(「浄土真宗聖典(註釈版)」補注より)

2016年05月01日 法話
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