法雷カレンダー 御和讃のこころ

定例会入会の方には、法雷カレンダーをお渡ししています。
昨年は「祖師のおことば」をテーマに、親鸞聖人をはじめ各祖師方のおことばを毎月楽しませていただきました。
今年は「御和讃」をテーマに、親鸞聖人の500首あまりの和讃の中から、稲垣瑞剱先生が揮毫して下さいましたものを毎月味あわせていただく予定です。
1月と2月のご和讃は、冠頭和讃とよばれるもので、浄土真宗の肝要を示した和讃です。

弥陀(みだ)の名号(みょうごう)となへつつ 信心(しんじん)まことにうるひとは
憶(おく)念(ねん)の心(しん)つねにして 仏(ぶっ)恩(とん)報(ほう)ずるおもひあり
(意味:弥陀の名号である南無阿弥陀仏をとなえ、他力の信心を得ることができた人は、つねに本願力のはたらきをおもうこころがたえないで、阿弥陀仏のご恩を報ぜずにはいられない。)

誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)をうたがひて 御名(みな)を称(しょう)する往生(おうじょう)は
宮殿(くでん)のうちに五百歳(ごひゃくさい) むなしくすぐとぞときたまふ
(意味:如来の不思議な誓願をうたがい、自力の念仏によって、浄土に往生しようとするものは、疑城胎宮という化土に生まれ、五百年の間むなしく年月を送り、三宝を見ることもできないと説かれている。)

第一首は、真実の信心を得て、念仏を称えている者のすがたを示して、真実信心を得ることを勧められ、第二首は、疑いの心をもって念仏を称える者が、お浄土の化土にうまれる姿を示して、本願を疑うことを誡められている。冠頭二首は、信を勧め疑を誡める「勧信誡疑」を表されるものといわれる。それは、この二首のみならず、「三帖和讃」全体に通じる親鸞聖人のおこころのあらわれです。

稲垣瑞剱先生は「浄土和讃講讃」の中で
「それで、まあ、高僧方も、もと仏様であったという人が「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)(衆生は無辺なれども誓いて度することを願う:地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)」「煩悩無数誓願断(ぼんのうむしゅせいがんだん)(煩悩は無数なれども誓いて断ずることを願う:煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)」と発心なさる。法然上人も親鸞聖人も、それは出来んよって落第や。落第してしまって、「如何しようかなー」「どうも仕様がない」、けども自分ながらも、「私には助かる道がない、私が助かる道はないけども、助かりたい」、「私が仏になる道はないけども、仏になりたい」「極楽へ行く道がないけども、極楽へ行きたい。」という心が起こってくるのである。犬猫は知らんけど。凡夫といいながら、やっぱり人間にはよい心がある。それすら仏様の光明に触れぬことには、そういう心は起らん。さあ、そういうところへ行って、そこで真剣にその道を探し、辛苦すると、仏様が、「南無阿弥陀仏、落としはせんぞ」「お前の後生はおれが引き受けた」と仰せられる。「心配するな」「お前は極楽へただのただで往けるぞ」と仰る。

「ただで往けるようにしてあるのが“本願力”という力や」と、そういうふうに仰って下さったら、こちらの方は「ありがとうございます」となるのである。それより外にない。そうすると、明けても暮れても「有難うございます、有難うございます、南無阿弥陀仏。何も出来ませんこの愚か者を、阿弥陀さまなればこそ、有難うございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」となるのである。それが「弥陀の名号となえつつ」である。

「有難うございます、ありがとうございます」と、仏様のお慈悲の力を仰ぐのが「憶念の心」である。
「仏恩報ずる思い」というのは、どういう「おもい」か、というと、「勿体ないことです」という、それだけが「仏恩報ずる思い」である。

まあ、こういう宗教は世界中に二つとない。これだけで皆、「仏」になるのである。「この結構なみ教えを、誰も彼も、まあ世間の人に、一人でも多く聞いてもらいたいな!」と思うのも「仏恩報ずる思い」である。

「信心とはどんなものですか」と、聞いたら、なかなか難しい。お聖教(『最要鈔』)には、「信心をば、まことの心とよむ上は、凡夫の迷心にあらず、全く仏心なり」とある。そしたら、如来様の「どうしても助ける」「助けなおかん」という仏心、親心が信心である。そこのところを、やはり、“聞き開かないかん”のである。

善導様が「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」と仰ったのである。「汝一心正念にして直ちに来れ」の「およびごえ」は、「おねがいだから、どうぞ、そのまま、直ぐ来ておくれ」と仰るのである。これならわかるであろう。

それに、無常迅速、ぐずぐずしとったら地獄へゆくから「そのまま、直ぐ来ておくれ」と、仰るのである。如来さまから「おねがいだから」と言われたら、「“直ちに来れ”と言われたとて往かれませんやないか」と、そんなこと言う必要ないであろう。

「そうでしたか!それが「汝一心正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」というおこころでしたか!」とこうなるのである。阿弥陀さまが「おねがいだから、どうぞ、そのまま、直ぐ来ておくれ」と仰るのである。これがほんまの南無阿弥陀仏の意味であり、おいわれである。第18願のおこころである。
「冠頭和讃」の次の句は、これは20願の意である。20願というのは仏智の不思議を疑う、これが20願というものである。

誓願不思議を疑うのは、「仏智を疑う」のと同じことであり、「仏智疑う罪深し」と言うて、仏様の智慧を疑う者は「胎生」といって、宮殿のうちに五百歳、三宝を見聞することができないと説かれている。
「十八願のお法り」を聞き開いて、「南無阿弥陀仏のおいわれ」を聞き開いて「十八願のおよびごえ」を「ありがとうございます」と聞いたものは、これは「仏智の不思議を信じた」「明信仏智」(明らかに仏智を信ず)の人である。化土に往生する人は不了仏智の人、仏智を了せず、仏智をさとらず、仏智を信ぜぬところの人がこの化土に往生するのである。

2016年02月01日 法話
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