淨教寺開創771年

今から771年前の寛元二年(1244年)3月、河内国八尾の庄司(しょうじ)真野(まの)将監(しょうげん)行(ゆき)延(のぶ)という知勇兼備の武士が無常を感じ、親鸞聖人の直弟子として出家して法名を行延とたまわりました。そのお方こそが淨教寺の初代。淨教寺開基の行(ぎょう)延(えん)法師です。
爾来771年間、連綿として浄土真宗のみ教えの流れが滔々と門信徒の方々の日々を潤い満たしてまいりました。

ここに、淨教寺親鸞聖人750回大遠忌法要記念事業として、平成25年より本堂・鐘楼の平成大修復工事、屋根瓦葺き替え並びに耐震化工事を施工していただき本年3月無事完了いたしました。その後、庫裡、山門の改修工事、境内周辺整備をほぼ完了いたすことができました。改めまして門信徒各位並びに有縁の方々のご理解ご協力に感謝し、衷心より御礼申し上げます。

10月17日(土)には、西本願寺大谷光真前門様ご親修による「本堂平成大修復の大法要」が午後2時30分より淨教寺本堂にて執り行われます。また、10月18日(日)には、午前10時「報恩講」、午後2時30分「親鸞聖人750回大遠忌法要」を勤めます。ぜひ、このご勝縁にご参詣いただきますようお願いいたします。

みなさまが、このご法要の御縁に遇えたことは、当たり前ではありません。親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と、深い深いご縁を尊ぶべきであるとお示しくださっておられます。
私たちも、単に大法要にお参り出来たということだけではなく、771年の間ご縁のあった方々の一人一人の「生きる力としての南無阿弥陀仏」を再発見していただきたいと思います。

淨教寺開基の行延法師が親鸞聖人のもとで出家された寛元二年は親鸞聖人72歳の御年になります。
このころは、関東から京都にもどられ(60歳から62歳頃に関東よりおもどり)五条西洞院あたりに居住され、著作に専念していかれます。
ことにこの74歳前後は兄弟子の聖覚法印の書かれた『唯信鈔』をたびたび書き写しておられます。

聖覚法印は、隆寛律師とともに、師匠法然上人からあつく信任されていた方です。『唯信鈔』は法然上人より相承する念仏往生の要義を述べて、表題のごとく「ただ信心を専修念仏の肝要とすること」を明らかにされたものです。

『唯信鈔』について親鸞聖人はご自身の書かれた『唯信鈔文意』の冒頭に以下のように教えておられます。

「唯信鈔」 というのは、 「唯」 はただこのこと一つということであり、 二つが並ぶことを嫌う言葉である。 また、 「唯」 はひとりという意味である。「信」 は疑いのない心である。 すなわちこれは真実の信心であり、 虚仮を離れている心である。 「虚」 は 「むなしい」 ということであり、 「仮」 は 「かりの」 ということである。 「虚」 は実でないことをいい、 「仮」 は真でないことをいうのである。 本願他力におまかせして自力を離れていること、 これを 「唯信」 という。 「鈔」 はすぐれていることを抜き出して集めるという言葉である。 このようなわけで「唯信鈔」 というのである。 また 「唯信」 というのは、 この他力の信心のほかに別のことは習わないということである。すなわちこの信心は、 阿弥陀仏が広くすべてのものを救おうと誓われた本願そのものだからである。

『唯信鈔文意』は、『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に註釈を施されたものです。また、親鸞聖人は『唯信鈔』を尊重され、門弟にしばしばこれを熟読することを勧められていることが、ご消息(お手紙)の記事や多くの書写の事実などから知ることができます。

「唯信」とは、本願他力におまかせして自力を離れていることですから、「唯信鈔」は、他力の信心を獲る道を教えられたものであり、自力心を離れる道を教えられた書物といえます。
そのことをふまえて親鸞聖人は「念仏を行ずるよりも、いかにして念仏で救われるかということを信じるか」ということ、すなわち、いかにして本願名号(南無阿弥陀仏)のいわれを正しく信じ、真実の信心を獲るかということが浄土真宗の肝要であるということを私たちに「信心正因 称名報恩」と教えられたのです。

2015年10月01日 法話
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