近江商人 伊藤忠兵衛氏

伊藤忠商事創業者の初代、伊藤(いとう)忠兵衛(ちゅうべえ)は、わずか15歳の若さで持ち下(くだ)り商いをはじめ、以来幕末から明治初・中期という激動の時代に、まったく独立独歩で各種の事業を興し、それらを大きく育てあげました。彼の足跡をたどると、そこには事業展開における革新性と、経営理念の底を流れる慈悲の精神が浮びあがってきます。
特に、彼の経営理念を貫く仏教的な慈悲心は現代のわれわれ門信徒一同が注目し、仏教徒として生きる指針として大いに学ぶべきところがあります。

彼の経営理念を貫く仏教的な慈悲心は、「商売は菩薩(ぼさつ)の業(わざ)」と信じて自ら実行し、店員にそれを徹底させました。近江商人を特徴づける「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の実践や「商売で嘘をつくな」という厳しい教えも、そこからきていたといえます。

同時に、彼は店員に対しても慈悲心を持って接しました。それは、主従の関係というよりも、家族主義的な、共同経営者として店員を遇する姿勢になってあらわれていました。

また彼は、店員にはもれなく合本の『正信偈(しょうしんげ)和讃(わさん)』1冊と数珠を持たせ,朝夕店内の仏壇でおつとめをし、お念仏の声が絶えることがなかったそうです。そして北の御堂さん(津村別院)へお参りするのを日課としたそうです。また、毎月の定例の日には本山や各地の名僧知識を招いて、店内で法話会を開き、この時は店員ばかりでなく、多くの得意先や知人も参加して聴聞するのが常であったようです。

彼のこのような熱き信仰心は、浄土真宗の信仰が盛んな近江国犬上郡豊郷村人目(現・滋賀県犬上郡豊郷町人目)に近江商人(湖東商人)として生まれ薫陶をうけたこと、そして持ち下(くだ)り商いの中で、博多・萬行寺(まんぎょうじ)の七里(しちり)恒順(ごうじゅん)和上のご教化を受けた事が大きな影響を及ぼしています。

小さい時からのお育ての大切さ、よき人(善知識(ぜんぢしき))との出遇いの大切さを教えてくれる偉大な先人としてその足跡をたどりたいと思います。
(7月15日(水)近江商人の里を訪ねるバスツアーを計画しました。ぜひご参加ください。)

菩薩とは、さとりを求めて修行する仏道修行者のことで、自分一人のさとりを求めるのでなく、人々と共に歩み、他のものをもさとりに導こうとするもののことをいう。
(参考:伊藤忠商事HP、仏教の経営観に関する覚書)

七里恒順和上と伊藤忠兵衛氏との逸話 (『七里和上言行録』より)

京都の呉服商伊藤某氏。かつて和上に対して、「私はご承知の通り商法家であります。したがって商売する間にはずいぶん難しい人を相手に致し、つまらぬことにも煩悩を起し、無用のことに腹を立て欲にとらわれ、まとはれることがあり、それがためには御法義(仏法を聴聞すること)も自然留守になります故、こんな嫌な商売をやめ、江州(江州は本宅、京都・博多に呉服店あり)の家に帰って百姓となり、田畠を耕しながら法義(仏法)三昧で世渡りが致したいと考えます。」と相談した。

和上はこれを否定して云われた。「それは悪い、お止めなさる方がよろしい。成程難しい商売をやめ、地方に帰って百姓となれば、最初は思うようにお寺参りも出来るけれども、しばらくすれば元の木阿彌。鋤鍬をとる農業の一々が煩悩を起す助縁(きっかけ)となり、御法義相続(お聴聞し続ける)の出来ぬ点はいずれか解からぬこととなる。のみならず商売すれば、多く気をつかい、はげしく煩悩を起す故、御法義相続の妨害になるには違いはないけれども、それが刺激となり、却って御相続の出来易いものである。

山奥より材木を流すに、谷川の曲がった狭い流れを落すときは、成程石や岩に当たって、曲がり角にぶち当たって中々流れにくい。けれども、その岩や石にあたる度にそれが刺激となり、突き当たりてはその反動力で流れ、流れては突き当り、割合早く流れる。それを広い平面の障りのない川に流すときは、何等の障害もないかわりに、一向らちがあかぬ。穏やかな川よりも、石や岩の多い谷川の方が、材木が早く流れると同じく、難しい人を相手に商売する間は刺激が多いから、一事一物ことごとく助縁となりて、御相続がしやすい、それを田舎に帰って百姓となれば、激しく心も使わず、安楽に暮せるから、刺激が少くなると同時に御喜びも起りにくい。」と諭され、一層、聴聞に商売に精を出されたとのことです。

伊藤忠兵衛氏の若かりし頃の出来事でありましょう。この七里和上からのおことばが伊藤忠商事の大きな発展に、また彼の革新的な経営戦略の原点になっていったのでありましょう。そして、常に阿弥陀如来の慈悲の心を体得し、仏法聴聞の中で商売を続けて行かれたのでしょう。

2015年03月01日 法話
pagetop