淨教寺開創770年

今から20年前の平成6年10月8日9日に大谷光照本願寺前々ご門主さまご親修のもと淨教寺開創750年記念法要をお勤めさせていただいた。

それから20年目の本年(平成26年)に、淨教寺本堂屋根瓦葺き替え、耐震化工事をさせていただくことができたということは感慨無量であります。

「淨教寺の開基」

「淨教寺由緒略記」によると、淨教寺開基の行延(ぎょうえん)法師は、河内国八尾の庄司真野将監行延といい、知勇兼備の武士であったが「後世の大事を知り」親鸞聖人の直弟子となって寛元2年(1244年)3月出家得度して行延と法名を頂戴したことが始まりである。

寺紋は「九曜菊水(くようきくすい)」・寺号は「称仏名院(しょうぶつみょういん)」

淨教寺第6世円誓(えんぜい)に実子が無かったため、楠 正成(くすのき まさしげ)の弟、楠正季(くすのき まさすえ)の男、楠右近衛将監正忠の子、初陣に深手を負い、円誓の養子となって出家し、第7世空信(くうしん)となる。後醍醐天皇の勅願所となり、爾来寺紋は九曜菊水を用いることとなる。後醍醐天皇13回忌に当たり、光明院帝御宸翰(ごしんかん)の「浄土三部経」を納経いただき、経の奥書に「称仏名院」と号す旨、お示しいただき、これより「称仏名院」と寺号を定める。

八尾から大和郡山西城村、そして九条の里に移転

享禄3年(1530年)11世行心(ぎょうしん)のとき、称仏名院を河内から大和国添下郡富ノ庄城村に移転する。この時のご本尊が現在も浄覚寺というお寺にご安置されているらしいです。

永禄2年(1559年)12世行春(ぎょうしゅん)の時、九条の里に移し、この時から山号を九条山(くじょうざん)と言う。この後、ご本山の顕如上人、石山本願寺ご籠城のみぎり、行春、河内・大和の門徒を連れて無二の忠節を尽くした功績により天正9年(1581年)石山本願寺お内仏のご本尊を拝領する。また、天正19年(1591年)ご本山が京都の現在地に移転した折に、顕如上人より寺号を「称仏名院」から「淨教寺(じょうきょうじ)」へと改めるご染筆を頂戴した。

徳川幕府赦免状にて現在地に移転

慶長八年(1603年)三月、徳川幕府から南都上三条のご赦免の寺地を頂戴して、淨教寺を現在地に移した。西本願寺の役寺として南都七大寺や市中外寺院、奈良奉行、小泉城主片桐氏などへの連絡にあたっていた。

明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年からの神仏分離令による「廃仏毀釈」で全国の寺院は壊滅的な大きな被害を受けた。淨教寺も例外ではなく、山門が売りに出されたようであるし、二十一世徳誓(とくせい)は明治15年12月に非常の事ありて寺を後にしています。その後、明治17年2月島根県より島田法城師が二十二世として入寺されました。

その4年後の、明治21年6月5日にアーネスト・フェノロサが「奈良の諸君に告ぐ」という講演を淨教寺本堂で行っています。

本堂焼失(昭和11年)

昭和11年1月26日未明、不慮の失火により全焼。この度の平成大修復工事で焼失した本堂の部材の一部が保存されているのが発見され、「文政丁亥中冬 十八世大誓」の刻銘があり、焼失以前の本堂は1827年に建築されたことが確認されました。

現本堂は、昭和16年起工式。昭和19年棟上げ式。昭和43年10月17日落慶法要。

淨教寺開創750年記念法要

平成6年(1994年)10月、開創750年記念事業として庫裡の新築工事落慶法要と蓮如上人500回忌、顕如上人400回忌の法要を営みました。

淨教寺開創770年目の記念事業

本堂屋根瓦葺き替え、耐震化工事並びに鐘楼屋根瓦葺き替え、修復工事を開創770年の節目の年(平成26年)に施工していただくことができました。現在、向拝の敷石の調整、本堂内部の照明設備の取り付け作業が進められています。

きれいに葺き上がった美しい屋根を見ていただくことができますので、ぜひご参詣下さい。

2014年11月01日 法話
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