南無阿弥陀仏の金メダル

ソチ冬季オリンピックも無事閉幕しました。
日本人選手団も多くの感動を与えてくれました。
皆様の中にはどんな選手が思い起こされるでしょうか?
結果の出せた選手。期待の大きさに不本意な成績で終わった選手。様々でありました。しかし、そこまで至る、その過程を思うとき目標に向けた想像を絶する並々ならぬ努力があったことは私たちの思いも及ばないものでしょう。

羽生結弦(はにゅうゆずる)選手の金メダルを阿弥陀さまの南無阿弥陀仏に譬えてみましょう。
羽生選手がオリンピックに出て金メダルを取りたいと思ったきっかけは、トリノオリンピックでフィギアースケート女子シングルス初の金メダルを取った荒川静香選手の素晴らしい演技だったそうです。
「フィギアースケートは、こんなにも感動を与え、希望と勇気を育んでくれるものなのだ。僕も荒川選手のように日本国中の皆さんに元気と希望と感動をスケートを通して届けたい」と、決意したそうです。
そして、並々ならぬ想像を絶した努力の結果が今回の金メダルへと結びついたのでしょう。

この金メダルを見るたびに感動と勇気、そしてそこに秘められた言い知れぬ努力を感じ取ることができます。そして素直に「感動をそして元気をいただきありがとう!」と言いたくなります。

 

阿弥陀さまの金メダル

これを阿弥陀さまのおはたらきに置き換えて味わってみると、阿弥陀様がある国の王であった時、人生の「生老病死」の苦悩の有様をご覧になられ、世自在王仏の説法に遇われ、感動して、ご自分も「生死の苦の本を抜かん」と出家の決意をされ法蔵と名のられました。そして、210億の諸仏の淨土等をよく見聞きして、五劫という長い時間をお考えになられ、南無阿弥陀仏の名前となってそれを聞くものを必ず救うとの稀有なる誓いをたてられました。
そして、その誓い(願い)を成し遂げていくために、兆載永劫という長く厳しいご修行を積まれました。そしてご修行によって積まれた功徳の全てを南無阿弥陀仏の六字のみ名に込めて誓いを成就されました。南無阿弥陀仏の金メダルの完成です。

金メダルを見るたびに、羽生くんの素晴らしい演技の感動と、私たちに感動を与えるための目に見えない努力と、その感動に対しての「ありがとう」の感謝の思いがあふれ出ます。

南無阿弥陀仏のお名号を聞くときに、聞かせていただくまでにどれだけの生死を繰り返してきたのかわかりません。やっと仏縁をいただいたことのありがたさを思います。そして、五劫思惟・兆載永劫のご苦労の末に南無阿弥陀仏という称えやすく、保ちやすい六字の名前となって私一人のために「生死の苦の本を抜かん」と誓い、「必ず浄土に生まれさせる」と呼び続けてくださる大悲の呼び声に気付かされていきます。その呼び声の響き渡っていることに気づかされた時(信心獲得)に、よくぞこのような私を目当てにして「必ず救う」と呼び続けてくださることよ!と、有難く、報恩感謝の思いがわき上がってくるのでしょう。

 

唯円さまとのおはなし

しかし、現実問題は、羽生くんの金メダルは大きな感動をもたらしますが、南無阿弥陀仏はなかなか金メダルと思えませんし有難く思えないのが正直なところではないでしょうか?
そういう気持ちは親鸞聖人の時代にもありました。『歎異抄』第9章に親鸞聖人と唯円さんのお話が残されています
唯円さんが「実は、お念仏を申しておりましても、躍り上がるほどの嬉しさもなく、早くお浄土に行きたいとの思いも起こりません。これは一体どうしたことでしょう?」と、告白されました。それの対して親鸞聖人は「そうか、そなたもそうであったか。私も同じことを感じたことがあるのです。」と、優しく受け止めてくださいました。そして続けて「喜ぶべきことを喜べないのは、煩悩の身であるからである。私たちは常に現世への欲望や執着にとりつかれた哀れな存在であり、それを煩悩具足の凡夫というのである。
はやくお浄土へ往生したいとも思わず、この世に執着する情けない私であるからこそ阿弥陀仏はことに熱い思いをかけて必ず救うと願いをたてられたのです。そう考えてみると、ますます仏様の慈悲がたのもしく感じられ、凡夫の往生間違いなしと強く信じられてくるのです。
むしろ、躍り上がるほどの喜びがあり、早く浄土に行きたいと思う方が問題で、煩悩が欠けているのではないかと心配になります。」とお答えになられました。

2014年03月01日 法話
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