主におしゃかさまのお生まれになる前の世のお話として伝わる因縁物語。法隆寺蔵の玉虫厨子には、ジャータカ物語として施身聞偈図の雪山王子や、捨身飼虎図の薩埵王子が描かれていることで知られている。
宮沢賢治が「手紙 一」として書いたものを、戸田幸四郎さんが「竜のはなし」として、絵本にされたものを紹介します。
「手紙 一」 宮沢賢治 「竜のはなし」
むかし、あるところに一疋の竜がすんでいました。
力が非常に強く、かたちも大層恐ろしく、それにはげしい毒をもっていましたので、あらゆるいきものがこの竜に遭えば、弱いものは目に見ただけで気を失って倒れ、強いものでもその毒気にあたってまもなく死んでしまうほどでした。この竜はあるとき、よいこころを起して、これからはもう悪いことをしない、すべてのものをなやまさないと誓いました。
そして静かなところを、求めて林の中に入ってじっと道理を考えていましたがとうとうつかれてねむりました。
全体、竜というものは、ねむるあいだは形が蛇のようになるのです。
この竜も睡って蛇の形になり、からだにはきれいな、るり色や金色の紋があらわれていました。
そこへ猟師共が来まして、この蛇を見てびっくりするほどよろこんで云いました。
「こんなきれいな珍らしい皮を、王様に差しあげてかざりにしてもらったらどんなに立派だろう。」
そこで杖でその頭をぐっとおさえ刀でその皮をはぎはじめました。竜は目をさまして考えました。
「おれの力はこの国さえもこわしてしまえる。この猟師なんぞはなんでもない。いまおれがいきをひとつすれば毒にあたってすぐ死んでしまう。けれども私はさっき、もうわるいことをしないと誓ったし、この猟師をころしたところで本当にかわいそうだ。もはやこのからだはなげすてて、こらえて、こらえてやろう。」
すっかり覚悟がきまりましたので目をつぶって痛いのをじっとこらえ、またその人を毒にあてないようにいきをこらして一心に皮をはがれながら、くやしいというこころさえ起しませんでした。
猟師はまもなく皮をはいで行ってしまいました。
竜は、いまは皮のない赤い肉ばかりで地によこたわりました。
この時は日がかんかんと照って土は非常にあつく、竜はくるしさに、ばたばたしながら水のあるところへ行こうとしました。
このとき沢山の小さな虫が、そのからだを食おうとして出てきましたので蛇はまた、
「いまこのからだをたくさんの虫にやるのはまことの道のためだ。いま肉をこの虫らにくれておけばやがては、まことの道をもこの虫らに教えることができる。」と考えて、だまってうごかずに虫にからだを食わせとうとう乾いて死んでしまいました。
死んでこの竜は天上にうまれ、後には世界でいちばんえらい人、お釈迦様になってみんなに一番のしあわせを与えました。
このときの虫もみなさきに竜の考えたように後にお釈迦さまから教を受けてまことの道に入りました。
このようにしてお釈迦さまがまことのために身をすてた場所はいまは世界中のあらゆるところをみたしました。
このはなしはおとぎばなしではありません。
花岡大学さんの推薦の言葉(一部)
わが愛する幼な子たちを、情熱的に育もうとしている若きお母さんたちに心をこめて申し上げたい。
この国の教育が、ながいあいだ「あるべき精神」を喪失していたため、くまなく悲しむべき荒土と化して、めちゃくちゃとなり、もはやどうにもならないという状況になってしまっている時だけに、その喪失した「あるべき精神」をとりもどす場は、ただ幼児教育よりほかにはないといいきってもいいくらいに、みなさんが打ち込んでおられるお仕事ほど重いものは、ほかにないといわなければならない。(中略)
日本全国の幼な子とそのお母さんたちに、ひろくこの絵本を見てもらい、賢治精神がすみずみまでゆきわたれば、どんなにいいだろうか。わたしは、ひたすらそれを願う。
親鸞聖人の三哉(さんかな)の「悲しきかな」とは、
【悲哉】
まことに知(し)んぬ、悲(かな)しきかな愚禿(ぐとく)鸞(らん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈(ちん)没(もつ)し、名利(みょうり)の太(たい)山(せん)に迷(めい)惑(わく)して、定聚(じょうじゅ)の数(かず)に入(い)ることを喜(よろこ)ばず、真証(しんしょう)の証(しょう)に近(ちか)づくことを快(たの)しまざることを、恥(はず)べし、傷(いた)むべし。『教行信証 信巻末』
(意味:いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛情、欲望の広い海に沈み、名誉や利益を求める深い山に迷って、信心を得て正定聚の仲間に入ることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、嘆かわしいことである。)
この寒空の元、真っ裸になることができる場所がある。そこはどこでしょう?
答えは、「露天風呂」
暖かいお湯がとうとうと流れるお風呂があるからこそ、裸になることができます。
阿弥陀さまのあたたかいお慈悲に触れ、つつまれておればこそ、赤裸々に、いかり、はらだち、そねみ、ねたみ通しで、悟りに近づことしないわが身をさらけ出し、慚愧することができるのです。