「キョウヨウ」と「キョウイク」

新しき年を、それぞれの思いでお迎えのことと存じます。
本年もよろしくお願いいたします。

父が先日、お参りに行ったお宅で教えていただいたお話を一つ。
それが表題の「キョウヨウ」と「キョウイク」ということだそうです。

昨年7月14日の朝日新聞の「天声人語」の記事とのことです。

体が引き締まり、日に焼け、すこぶる元気そうである。すこし前に退職した会社の先輩と先日偶然会い、立ち話をした。日々の暮らしぶりを楽しげに語ったが、そこには秘訣(ひけつ)があるらしい▼「キョウヨウ」と「キョウイク」なのだという。教養と教育かと思いきや、さにあらず。「今日、用がある」と「今日、行くところがある」の二つである。なるほど何も用事がなく、どこにも行かない毎日では張り合いがあるまい。かつての同僚から聞かされて実践しているという▼その同僚も誰かから聞いたというから、かなり流布している教えなのだろう。調べてみると、『頭の体操』で知られる心理学者の多湖輝(たごあきら)さんの著書に行き着いた。一昨年に出した『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』で紹介している▼多湖さんも100歳に近い大先輩に教わったのだそうだ。「ボケないための頭の使い方」を実に巧みに表現した言葉だと絶賛する。老後をどう生き生きと過ごそうかと誰しも考える。この話はわかりやすく、納得感もあるから、伝言ゲームよろしく広がっていくのも道理だろう▼日々の原稿に追われる身としてはまだ先の話と思いたくなるが、山登りや畑仕事に忙しい件(くだん)の先輩に諭された。「いまのうちから考えておけ」。たしかに定年を迎え、突然訪れた空白の時間の大きさに心身の失調をきたす人もいると聞く▼生来のものぐさ向けのボケ防止策はないものか。多湖さんも勧めるようにせめてよく笑うことにしようか。
(2013年7月14日朝日新聞「天声人語」より)

教養と教育と思いきや、「今日、用がある」と「今日、行くところがある」とは、何とうまいことを言ったことだろう。その点、親鸞聖人のお示しになる、人生の最大課題「生死、出ずべき道」を聞き開いていく仏法聴聞の場である本堂での聞法は生涯現役の究極のボケ防止である。
「生死、出ずべき道」の秘鍵こそが「信心獲得」です。
ぜひとも、親鸞聖人のお言葉を生涯かけて学んでいきましょう。
さあ、今年もお寺に行こう!

お釈迦様は、人類が始まって以来、人格完成者の第一人者である。お釈迦さまを見、その伝記を読み、その教えに耳を傾け、その教えに順って行おうと志すとき、早や聖なる希望は半ば満たされている。更にこれを実践するならば、聖なる希望は胸の内に躍り、自分も仏に成り得られるという大自覚と共に、その希望の星は常に自分を差し招いていることを知るであろう。このよろこび、この希望、この喜悦、この歓喜は地上の何物にも代えられないほどのものである。日々機械の前に、機械のごとく働いている間にも、仏陀の聖句、親鸞聖人のお言葉を頭に浮かべて、仏陀と聖人とを憶い念いして仕事するのは、如何に楽しき事であろうと思う。
家に帰れば聖句を一つずつ暗記するけいこをする。そうすると仕事の最中にそれが念頭に浮かんで来て、仕事は希望と楽しみの仕事と変わってくるであろう。
ひとたびこの体験を持つことが出来たならば、その体験をまた他の人に聞いてもらうがよい。これまた何ともいわれぬ楽しみである。聖なる楽しみと、聖なる希望とは一致する。遠き希望を日々に実現して行くことが、これが本当の希望であり、また人生の聖業である。ここに到って初めて人生の意義を見出しうるのである。
(稲垣瑞劔法師 「現代人の宗教入門」より)

 

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の三(さん)哉(さい) (2)

親鸞聖人の三哉(誠なる哉、 慶ばしい哉、 悲しき哉)の中、「慶ばしいかな」のおことばをあじわってみたいと思います。

【慶哉】
慶(よろこ)ばしいかな、西蕃(せいばん)・月支(げっし)の聖典(しょうてん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に遇(あ)いがたくして今(いま)遇(あ)うことを得(え)たり。聞(き)きがたくしてすでに聞(き)くことを得(え)たり。真宗(しんしゅう)の教(きょう)行証(ぎょうしょう)を敬信(きょうしん)して、ことに如来(にょらい)の恩(おん)徳(どく)の深(ふか)きことを知(し)んぬ。ここをもって、聞(き)くところを慶(よろこ)び、獲(う)るところを嘆(たん)ずるなりと。

『教行信証 総序』
(意味:よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。)

慶(よろこ)ばしいかな、心(こころ)を弘(ぐ)誓(ぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法(ほう)海(かい)に流(なが)す。深(ふか)く如来(にょらい)の矜哀(こうあい)を知(し)りて、良(まこと)に師(し)教(きょう)の恩(おん)厚(こう)を仰(あお)ぐ。慶喜(きょうき)いよいよ至(いた)り、至(し)孝(こう)いよいよ重(おも)し。

『教行信証 後序』
(意味:まことによろこばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す。深く如来の慈悲のおこころを知り、まことに師の厚いご恩を仰ぐ。よろこびの思いはいよいよ増し、敬いの思いはますます深まっていく。)

人間に生まれたこと、そして仏法に遇えたこと、先月の「法のたより」でご紹介した「誠(まこと)なるかな、摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の真言(しんごん)、超世(ちょうせ)希有(けう)の正法(しょうぼう)」の「南無阿弥陀仏」のお名号に出遇えたこと、その直接のご縁となった師、法然上人をはじめ各お祖師さま方のお導きがありました。それらのご縁をたどっていくとはかり知れないご縁の積み重ねにお育て頂いた私でした。そして多くのご縁に生かされていることの尊さにあらためて気づかされ、頭を深く垂れるしかない私でありますとの感動の慶びのおことばです。

2014年01月01日 法話
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