人生の大問題

2013年10月18日19日と、仮本堂にて初めての「報恩講」をお勤めいたしました。満堂の中二日間四座にわたり大峯 顕先生(大阪大学名誉教授)から「現世利益和讃」につきましてご法話たまわりました。

大峯先生のご法話より

南無阿弥陀仏を となふれば
この世の利益(りやく)きわもなし
流転輪廻のつみきえて
定業(じょうごう)中夭(ちゅうよう)のぞこりぬ  (現世利益和讃)

 

本当のご利益・本当の願い

親鸞聖人は金儲けなんかはご利益でないとおっしゃるのです。百歳まで生きてもご利益でない。百五十歳まで生きても「南無阿弥陀仏」が称えられない人は、「南無阿弥陀仏」の聞こえない人は、何のご利益も無いとおっしゃるのです。そこをはっきりしなければいけませんよ。

私たちの願いはただ一つです。いろんなことを願っているようだけれど、本当の願いは一つです。「死にたくない。」言い換えれば「本当に生きたい。」ということです。いかがですか?考える必要ないのじゃないですか?

死んだらどうなるかという大問題をまだ解決してない人は、どこか不安で気になるものです。
死んだらどうなるかが気にならない人はおかしいですよ。

でも、私は如来様の命の中に参らせて頂くのであって、死ぬなんてことはないとちゃんと如来さまから教えていただいて信じている人は、賢い人だから明るい顔をしています。

如来様はどうおっしゃるかというと、「お前は仏になる」とおっしゃいます。

死んだらどうなるかなんて、勉強したくらいでわかりません。
私が絶対わからないことだから、如来様はそれを心配して、お前は心配せんでもいいと、そして「私は仏様にしてもらうのか!」と「あ!びっくりした!」という心が本当にわいたら「南無阿弥陀仏」が出るんですよ。あなたの口から。

 

仏法は無我にて候う

蓮如上人は「仏法は無我にて候う」とおっしゃってます。信心は無我です。仏様の心を聞いている人は我がないのです。無欲と違いますよ。無我ですよ。
どんな欲望があっても「あ!そうやな。助けてもらうんやな!」と思ったらその人は欲望を持ったままで無我なんです。無我になれますよ。信心は無我だから。

無我とは食べたいものを食べないとか。腹立つ心を抑えるとか。そんなことではないですよ。何も思わない、私たちの心には無念無想なんて一瞬もないですよ。その私の心が一瞬、如来様の心に立たれる時があるのです。それが信心獲得の瞬間です。

 

浄土真宗の信心

永遠の時間の中に入っていくのです。それがなかったら浄土真宗はないじゃないですか。
そんな不思議なことがあるかといいますけれども、不思議なことがあるんですよ。信心は不思議そのものです。私のわからないことが起こることが信心ですよ。わかったようなことが起こるのを信心とは言わないのです。それは常識というものです。

「死ぬべき私が死ななくなる。」これをご利益と言わずに何をご利益と言うのですか?

蓮如上人のところで聞く人があったのです。
「上人、南無阿弥陀仏を信じなかったらどうなりますか?」
蓮如上人は「まあなんとかなるだろう」なんてことを言いません。
ハッキリと「永く地獄に落つべきものなり」とおっしゃいます。どこへ行くかわからない今の心の状態を地獄というのです。

信心は経験です。「浄土に生まれるであろう」なんていうことは本当の私の救いにはなりません。浄土に生まれること間違いないということでないと「であろう」ではダメです。

「明日のお天気は晴れるであろう」ではダメなんです。今、晴天の中に立っているということがないと本当の安心はないでしょう。
晴れてるのに「今日本当に晴れていますと私は信じています。」というバカはいないでしょう。
「明日は晴れるであろうと信じています。」ということは言えても、実際晴れている天気の中で「今日は晴れていると信じています」ということでしたら、病院へ行かないといけません。

今、真昼の晴天の下にいたら「信じている」なんてまどろっこしいことを言わなくてもいいじゃないですか。浄土真宗の信心とはそういうものです。
浄土真宗の信心は私の心じゃないです。信心は私に来た如来の心です。信心は私の一生懸命の心だと思ったら大間違いです。それは自力です。自力じゃ助かりません。どんなに真面目でも。
如来様の心が私に来て下さる。これが大きなご利益ですよ。

2013年11月01日 法話
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