台所にアリが出て困る。どうしたらいいでしょうと女性に聞かれて、アリ研究の権威が答えたそうだ。「足を下ろすときは慎重に」。これほどアリの身になった助言をする人は、めったにいないだろう。米国の昆虫学者が書いた『虫と文明』(築地書館)という本にあった愉快な話である▼日本でも、お坊さんの中には、殺生を少しでも避けようと下駄(げた)を履く人がいる。接地面の広い草履(ぞうり)は虫を踏みつける可能性が大きいからだという。そこまでの慈悲心は持てないけれど、拙宅にも大目にみている虫がいる。
(平成25年8月4日 朝日新聞 天声人語 一部)
という記事を読んで、金子みすずさんの「大漁」という詩が浮かんできた。
「大漁」
朝焼け小焼けだ 大漁だ
大羽鰮(いわし)の 大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の底では何万の
鰮(いわし)のとむらい するだろう
また、お盆のお参りの途中、ラジオの「NHK夏休み子ども科学電話相談」というコーナーで「ゴキブリは何のために生きているのですか?」という質問があった。
その答えは、「害虫」は人間が勝手にそう呼んでいるだけ。ゴキブリのいない世界で人は住みやすいかも知れないが、それを頼りにしている他の生き物が困る。見た目や動きだけで気持ち悪いと嫌がり過ぎるのは良くない。ゴキブリの良いところも見つけてあげよう云々。なかなか含蓄のあるお答えでした。
アリの話も、大漁の詩も、ゴキブリの話も、みんな「阿弥陀さまのまなざし」から出たもののように感じます。
すべての生きとし生けるものが、同じいのちを生きている。生まれ変わり死に変りして、いのちを積み重ねていく中に必ず仏縁(阿弥陀如来の「必ず救う。われにまかせよ。」との勅命に出遇わさせていただくこと)を得ていくということです。
同じいのちとは、仏性を持ったいのち。それを経典には「一切衆生悉有仏性(すべてのいのちあるものは、ことごとく仏となる種を持っている)」とか「草木国土悉皆成仏」と説かれ、現代では「山川草木悉有仏性」と表現されています。
「宗祖讃仰作法(音楽法要)」の和讃のあじわい
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取して捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる
十方:東、西、南、北、上、下、東南、東北、西南、西北。あらゆる全ての方角。全宇宙。
微塵世界:人間世界を含めた、全宇宙に存在するあらゆる世界。それは微塵にして数え切れない無数のものである。
念仏の衆生:南無阿弥陀仏のお念仏のご縁にあった、あらゆる全ての生きとし生けるもの。
ご縁の無かったものはどうなるのか?ご心配いりません。生まれては死に、生まれては死にを繰り返して、必ず南無阿弥陀仏のご縁に出会う日が来ます。ですから、現在キリスト教の方も、イスラム教の方も、無宗教の方も、前ページで出てきた、アリやいわしやゴキブリもきっといつかは南無阿弥陀仏に出会って「念仏の衆生」となっていくのです。もうひとつ申せば、私たちが称えている「南無阿弥陀仏」のお念仏の中に尊い尊い功徳が備わっています。その功徳が私たちの身のまわりの縁なきものに仏縁を与えているとも言えます。ありがたいことです。
みそなわし:阿弥陀様が私たちをご覧になられて。
摂取して:親鸞聖人はご和讃の左側に意味を書かれています。それをご左訓といいますがこのことばには深い深いお心が施されています。
「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂は、ものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる。取は迎えとる。」と左訓されておられます。
阿弥陀様の方から、私の方へ迎えに来て下さる。嫌がって逃げているもの、無視しているものでも、追っかけてきて、後ろから抱きかかえて救ってくださるというお心です。
捨てざれば:一度すくい取ったならば、もう絶対見捨てることは無いという不捨の慈悲の心。
阿弥陀:アミターユス(無量寿・測り知ることのできない無限の寿命(いのち)を持ったはたらき・いつでも、どんな時でもはたらき続けて下さる)アミターバ(無量光・無限の光のはたらき・どこでも、どんな場所にいても必ずいたり届いて下さるはたらき)の意味を持つ大きな慈悲のはたらき。
名づけたてまつる:阿弥陀と、親鸞聖人が「名づけたてまつった」というように理解されますが、
『阿弥陀経』には、
「彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障碍する所なし。この故に号して阿弥陀と為す」
「彼の仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。故に阿弥陀と名づく」
と説かれています。そうすると阿弥陀と名づけたのは、お釈迦さまによって、そう名づけられたということです。
また、親鸞聖人は『一念多念文意』に、
「この如来を方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあらはし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり。すなわち阿弥陀仏なり」
と述べられ、阿弥陀とは、阿弥陀仏ご自身が、形を現わし、名を示して、衆生に知らしめたものであり、こちらから命名したのではなくて、阿弥陀仏自身が、そのように告名したものであるということであると、他力のはたらきを味わっておられます。