瑞劔法語「法雷カレンダー」6月のことばです。
雨は、家にも、草や木にも、地面や池にも、分け隔てなく、まんべんなくすべてのものに降り注ぎます。
しかし、家の中で仕事に専念している人には、雨が降っていることにも気づかない人も多いでしょう。
家が、雨を、そして雨の音まで遮断してしまっています。
しかし、ふと仕事の手を休めたとき、「あっ! 雨が降ってたんだ!」と、気づきます。
というよりも雨の音が耳に自然と入ってきて雨の降っていることに気づかされるというほうが正直な実感かもしれません。
このうたの雨は、阿弥陀如来のお慈悲の雨(法の雨)です。
法雨はつねに降り注いでいます。目に見えない電波のように私の周りを駆け巡っています。ラジオのスイッチを入れないと聞こえないように、法雨である「南無阿弥陀仏」の呼び声も法の縁が熟さなければなかなか聞けるものではありません。
「聞く人ありて」とは、「遠く宿縁を慶べ」と親鸞聖人が仰られた宿縁が熟した賜物でありましょう。
「心配するな 心配するな 心配するな 大悲の親が 待っている」(法雷カレンダー7月のことば)
という、法雨となって響き渡っているお慈悲のはたらきを聞かせていただくのです。
法蔵菩薩の五劫思惟、兆載永劫の血涙にじむご苦労、ご修行に今一度深く思いをかたむけさせていただく必要があります。
ご法話がないときは、聞いたことを常に思うべきです。常にお聖教を拝見・熟覧すべきです。仕事が忙しくて、法話が聞けず、お聖教を拝見できないときは、常に名号を称えるべきです。これはまた法(弥陀の慈悲)を聞くことになります、とのお示しもあります。常に聞法を心がけましょう。
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ
という、法然上人のうたも有名です。
月の光も同じように、感じ取ることが出来るでしょう。
美しい月をながめた人のみが、自然と「あぁ なんと綺麗なお月様だろう!」と思わず、うっとり見とれてしまします。この月をながめさせていただくのに、どれほどの生死流転を繰り返してきたことでしょうか?
「あぁ 月が 言うもおろかよ あぁ 月が」と、瑞劔先生が詠まれました。
何とも言えない、感応道交の世界です。
「いのち」という仏教讃歌があります。
1 野の花の 小さな命にも ほとけはやどる ほとけはやどる
朝影とともにきて つつましい つつましい
営みを あたえる おなじように2 野の鳥の おさない命にも ほとけはやどる ほとけはやどる
涼風とともにきて 生きる身の 生きる身の
喜びを ささやく おなじように3 白露の はかない命にも ほとけはやどる ほとけはやどる
月しろ(月が出る前)とともにきて ひとよさの ひとよさの
安らぎを 教える おなじように
野の花、野の鳥、白露
ありとあらゆるものに、宿るほとけさまの慈悲を感じていく感性の豊かさ
これも、小さい時からのお育てが大きな力となって行くように思います。
先日も、「腹帯授与式」という儀式を淨教寺で初めて勤めさせていただきました。
初参式(しょさんしき)は、赤ちゃんが誕生して初めてお寺に参り、誕生を報告し、親子で聞法をしていく最初の儀式です。神社への宮参りが多い中、みなさんの中にも少しずつ受け入れられているように思います。
奈良では、帯解寺などにお参りして、懐妊して無事出産できるように腹帯を授けてもらいに行く人が多いようです。
今回の「腹帯授与式」は、熊本県のご出身のお念仏のみ教えをよろこばれる熱心なお方のお孫さんご夫婦にお子さんが授かり、ぜひ淨教寺で腹帯を授与していただきたいとのお申し出がありまして、実現したものです。
これが、浄土真宗の門徒として一貫した教えにのっとった、本当のあり方であるとあらためて気づかせていただきました。喜びも悲しみも一つの宗教で貫くことができるということはなんと素晴らしいことでしょうか。(懐妊・出産・入学・成人・結婚・葬儀等)
ぜひとも、この記事をご覧になられた方は、初参式・腹帯授与式という言葉を覚えていただき、浄土真宗の門徒としてのあり方を再認識していただきたいと思います。