當麻曼荼羅(観経マンダラ)

奈良国立博物館にて開催されている『當麻寺-極楽浄土へのあこがれ-』4月6日(土)~6月2日(日)に展示される「當麻曼荼羅」は、私たち浄土真宗門徒が依り所とするお経『浄土三部経』(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)の中の『仏説観無量寿経』をもとに作られているものです。ぜひともこの機会に展観していただき理解を深める一助にして頂けたらと思います。

稲垣久雄(瑞雄)先生のホームページ「Amida Net」「Jodo Mandala」「浄土マンダラ研究会」もご参照ください。詳しく曼荼羅の絵の内容が解説してあります。以下その序文を紹介いたします。

浄土の荘厳と『観無量寿経』の概要を善導大師(613-681)の注釈書に基づいて巧みな筆致で描き出している。伝説によると、右大臣藤原豊成の子女、中将姫が763年に亡くなった母を慕って大和の當麻寺(たいまでら)で出家し、法如と名づけられた。弥陀を見奉りたいと一心に願った結果、ある日、尼さんが現れ、その望みを叶えるために蓮の茎を馬百頭分集めるように、と言った。父の助けによって三日間でそれを準備した後、尼さんの指示に従って境内に井戸を掘り、その水で蓮の茎から採った糸を洗った。すると糸は自然に五色に染まった。やがてもう一人の女の人が現れ、二人でお堂に篭もって一丈五尺四方の大マンダラを織り上げた。これが『観無量寿経』の内容を絵にした當麻曼陀羅である。法如が名を尋ねると、二人の女性のうち尼さんは弥陀であり、もう一人は観音であるとの答えをえたという。
當麻曼陀羅は鎌倉時代に入って広く世に紹介されることになった。法然上人のお弟子の浄土宗西山派の祖である証空(1177-1247)は1229年に當麻寺を訪れて原図の曼陀羅を拝して感動し『當麻曼陀羅註記』を書き、またそれを写させたほか、印板を国内及び中国に流布させたために、当麻マンダラの信仰が大いに広まった。徳川時代にはこの曼陀羅に対する信仰が隆盛を極めた。

(「浄土マンダラ研究会」HPより)

 

『仏説観無量寿経』の内容

『無量寿仏観経』ともいい、略して『観経』とも称される。このお経は釈尊在世当時、王舎城におこった事件を契機として説かれたもので、はじめに次のような事情が示される。悪友の提婆達多にそそのかされた阿闍世という王子が、父頻婆娑羅王を幽閉し、その王のために食物を運んだ王妃の韋提希夫人をも宮殿の奥に閉じこめた。夫人は遠く耆闍崛山におられる釈尊を心に念じ、仏弟子を遣わして説法してくださるよう求め、これに応じて釈尊みずから王宮の夫人の前に姿を現された。そこで夫人は、この濁悪の世を厭い、苦悩なき世界を求め、特に阿弥陀仏の極楽浄土を選んで、そこに往生するための観法を説かれるように請うた。
こうして、まず精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれる。この観法の中心は第九の真身観(阿弥陀仏の相好を観ずること)である。
さらに、釈尊はみずから精神を統一しないままで修する善について、上品上生から下品下生までの九品に分けて説かれる。まず、上品には大乗の善が説かれ、中品には小乗の善や世間の善が説かれる。そして下品にはこれらの善を修することができない悪人のために念仏の教えが説かれるのである。
ところが、このようなさまざまな観法や善を説き終ったあとで、最後に阿難に対して無量寿仏の名号を心にとどめよと説かれている。そこで親鸞聖人は、釈尊の本意がこれまで説かれてきた観法や諸善にはなく、他力念仏の一行を勧めることにあると見られた。

今から125年前、明治21年6月5日淨教寺本堂で「奈良の諸君に告ぐ!」との講演をした
アーネスト・F・フェノロサ ゆかりの収集品 日本へ里帰り

「ボストン美術館 日本美術の至宝」

-海を渡ったまぼろしの国宝、史上最大の里帰り!-
大阪市立美術館 (天王寺公園内)
4月2日(火)~6月16日(日)開催

アメリカのボストン美術館は、“東洋美術の殿堂”と称されます。100年以上にわたる日本美術の収集は、アーネスト・F・フェノロサやビゲロー、岡倉天心に始まり、いまや総数10万点を超え、海外にある日本美術コレクションとしては、世界随一の規模と質の高さを誇ります。この展覧会では、その中から厳選された仏像・仏画に絵巻、中世水墨画から近世絵画まで、70点を紹介しています。かつて海を渡った“まぼろしの国宝”とも呼べる日本美術の至宝が一堂に里帰りしました。ぜひ足をお運びください。

2013年05月01日 法話
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