石山本願寺(大阪城)

淨教寺の中庭の紅梅も、上の写真のように少しずつ咲き始めてきています。

各地に梅の名所はたくさんありますが、浄土真宗にゆかりのある梅林をご紹介いたします。
そこは、大阪城梅林です。大阪城天守閣の東側に位置していますが、この梅林の歴史はまだ新しく、1974年(昭和49年)に大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付したことがきっかけで、今では約1.7ヘクタールの広さに1200本の梅が植えられているそうです。
如上人のお書きになられた「南無阿弥陀仏」のお名号です。その説明板には、以下のように石山本願寺跡地であることが示されています。

石山本願寺と大阪(大坂)
明応5年(1496)、本願寺第8代蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。
「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の『御文章(御文)』とされている。この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された。
天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心になった。大坂(石山)本願寺の寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心に、6町2000軒におよぶ町屋が建ち並んでいた。多くの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
やがて本願寺は織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し鷺森、貝塚、天満を経て天正19年(1591)に京都へ移転した。
一方秀吉は、大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した。この大坂城は、大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。しかし、この大坂城公園の辺りがその遺跡と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。

<大阪市教育委員会>

(その後、本願寺は1602年の徳川家康による東本願寺の寺地寄進を受け、准如上人の西本願寺と教如上人の東本願寺に分裂し現在に至っています。)

ぜひこの機会に、大阪城梅林に足を運ばれ、当時の石山本願寺に思いを馳せつつ蓮如上人のご恩をお偲びいただければと思います。ちなみに旧暦3月25日が蓮如上人のご命日です(西本願寺では新暦5月14日に法要を営んでいます)。

また、説明板にある「明応7年(1498)11月21日付の蓮如の『御文章』」とは、蓮如上人84歳のもので、ご逝去される4ヶ月前のご遺言ともいえる大切な『御文章』です。次ページに掲載いたしますので、繰り返しお読みいただき親鸞聖人、蓮如上人の願いをお聞き取りください。

 

蓮如上人『御文章』第4帖15通 大坂建立の章

そもそも、当国(とうごく)摂州(せっしゅう)東成郡(ひがしなりのこおり)生(いく)玉(たま)の庄内(しょうない)大坂(おおざか)といふ在所は、往古(おうこ)よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜(せいそう)をへたりき。これすなはち往昔(おうじゃく)の宿縁(しゅくえん)あさからざる因縁(いんねん)なりとおぼえはんべりぬ。それについて、この在所に居住(きょじゅう)せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過し、栄華(えいが)栄耀(えいよう)をこのみ、また花鳥(かちょう)風月(ふうげつ)にもこころをよせず、あはれ無上(むじょう)菩提(ぼだい)のためには信心(しんじん)決定(けつじょう)の行者も繁昌(はんじょう)せしめ、念仏をも申さん輩(やから)も出来(しゅっらい)せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。またいささかも世間の人なんども偏執(へんじゅう)のやからもあり、むつかしき題目(だいもく)なんども出来(しゅっらい)あらんときは、すみやかにこの在所において執心(しゅうしん)のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賎(きせん)道俗(どうぞく)をえらばず、金剛(こんごう)堅固(けんご)の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意(ごほんい)にたりぬべきものか。それについて愚老(ぐろう)すでに当年は八十四歳(はちじゅうしさい)まで存命せしむる条(じょう)不思議なり。まことに当流法義にもあひかなふかのあひだ、本望(ほんもう)のいたりこれにすぐべからざるものか。しかれば愚老当年の夏ごろより違例(いれい)せしめて、いまにおいて本復(ほんぶく)のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕(ちょうせき)おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇(いっしちか)日(にち)報恩講のうちにおいて、信心(しんじん)決定(けつじょう)ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。

蓮如上人『御文章』第4帖15通 大坂建立の章 大意

この摂津の生玉の庄内大坂に坊舎を建てて、もう三年が過ぎました。
この場所に住んでいるのは、一生を安穏に過ごし、華やかでぜいたくな生活をしたり、また花鳥風月などに心をよせるためではありません。
信心を決定する人も増え、念仏する人々が多く育ってほしいと思うばかりです。
もし少しでもとらわれをもって、無理難題をいうような人があるようなら、この地にとどまろうとは思わずにすぐに離れるべきであります。
僧侶であるか俗人であるかなどに関係なく、信心を決定することこそが、阿弥陀如来や、ことに親鸞聖人のご本意に沿うものでありましょう。
私も八十四歳になりましたが、この夏ごろから体調が悪くなり、快復のきざしがありません。この冬にはきっと往生の素懐をとげることになるでしょう。
それにつけても、生きているうちに、みんなが信心決定するようにと、朝な夕なそのことばかりを思っています。
信心を得ることは、人間のはからいによることではありませんが、いつもそのことを思っています。どうか、この七日間の報恩講において、だれもが信心を決定して、ともどもに浄土往生をとげたいものです。

『御文章ひらがな版・拝読のために』(本願寺出版社)

2013年03月01日 法話
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