九条 武子(くじょう たけこ、1887年(明治20年)10月20日 – 1928年(昭和3年)2月7日)様は、西本願寺第21世明如上人(大谷光尊さま)の次女として、義姉・大谷籌子(かずこ)裏方(西本願寺第22世鏡如上人・大谷光瑞さま夫人)を助けて西本願寺仏教婦人会を創設し、1911年(明治44年)、籌子裏方さまが30歳の若さで早世されたあとは本部長に就任され同会運営の重責を果たされました。
甲斐 和里子女史が1899年(明治32年)に創設された仏教徒のための女学校「顕道女学院」を1912年(明治45年)西本願寺の援助を受けて京都高等女学校と合併し、仏教精神に基づく京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)を設立されました。
また、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、ご自身も被災されましたが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進されました。
愛唱されている仏教讃歌の「聖夜」は、1927年(昭和2年)7月に出版された随筆『無憂華』の中に収められています。「聖夜」は、中山晋平氏の作曲で、歌詞は七五調で構成され、夜空に輝く美しい数多の星のようにおわする、み仏さまに護られて生きていることのよろこびと安らぎが表現されています。
1928年(昭和3年)2月7日、震災復興事業での奔走の無理がたたり敗血症を発症し42歳の若さで、お念仏のうちにご往生されました。宗門では、武子さまのご命日を如月忌(きさらぎき)と呼んで法要が営まれております。
仏教婦人会綱領
私たち仏教婦人は、真実を求めて生きぬかれた親鸞聖人のみあとをしたい、人間に生まれた尊さにめざめ、深く如来の本願を聞きひらき、み法の母として念仏生活にいそしみます。
一、ひたすら聞法につとめ、慈光に照らされた日々をおくります。
一、念仏にかおる家庭をきづき、仏の子どもを育てます。
一、「世界はみな同朋」の教えにしたがい、み法の友の輪をひろげます。
*京都女子専門学校(現・京都女子学園、京都女子大学)設立秘話
仏さまに申し訳ない
明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されましたが、仏教系の女子学校はほとんどありませんでした。広島の浄土真宗のお寺に生まれた甲斐和里子女史は、あるとき友人との話の中で、「同志社の友人たちが、もともと英語を習おうと入学したのが、いつとはなしにキリストの信仰に入ることになった」というのを聞いて、ハッとしました。「仏さまに申し訳がない」と思ったのです。と、回想されています。
仏教精神に根ざした女子学校が必要との思いから、1899年(明治32年)ご本山の近くに「顕道女学院」(京都市下京区東中筋町花屋町上がる)を創設されました。
最初の頃の学校経営は、困難な様子でありました。
先生方の多くは、ご夫妻の熱意に同情してくださって、無報酬で教鞭をとってくださったようであります。また漢学者であり、南宋画の流儀を継承する画家でもありました夫・甲斐駒蔵氏は10銭の白扇(白いおおぎ)を求めてこられまして、そこに絵を描いて25銭で売られました。
あるいはまた、和里子先生は近所の学生の洗濯を5銭で引き受けて、それらのわずかなお金を学校経営に注ぎ込まれたのです。
それが京都女子学園の創立当初の様子でした。
心の学園
このようなご夫妻にとりまして、心に残る喜びの日が創設から25年目(1924年大正13年)に巡ってまいりました。
時の皇后陛下、貞明(ていめい)皇后の本学園への行啓(ぎょうけい)、すなわち、ご来臨は大きな感激の一瞬だったことと思います。
大正13年12月5日、関係者がお出迎えをする中、皇后さまは錦華殿(きんかでん)に到着されました。
皇后さまは、京都女専(京都女子専門学校)あるいは、高等女学校さらには、裁縫女学校の校内で、フランス語、家政学、国文学、心理学、体育、修身、裁縫などの授業をご覧になられました。
また、京都幼稚園の子供たちの遊戯や、京都高等女学校の生徒たちのコーラスなどをご覧になりました。
そうして、校庭の花壇では、和里子先生に、
「長い間、ご苦労でした。よくやってくれましたね。姉の籌子(かずこ(1882年~1911年)30歳で急逝)もさぞ喜んでいることでしょう。」と、ねぎらいの言葉をかけられました。
和里子先生は、深い感動を持って、このお言葉を聞かれたことと思います。
その後、皇后さまは寄宿舎に立ち寄られ、寮生の部屋に赤い小さな念珠が三つ置いてあるのに気付かれました。
それを手に取られた皇后さまは、そのそばにあった「正信偈」の本を手にされて、
「これは正信偈ですね。ここで毎日正信偈をとなえて、阿弥陀様にお礼をしているのですか。」と、聞かれました。
「そうでございます。」と答えますと、皇后さまは、「それは良い習慣ですね。」とお褒めくださったようであります。
そうして後日、皇后さまは、「あたたかに 香りゆかしき、こころの学校であります。」というお言葉を、京都女子学園に贈ってくださいました。
そうしたことから、京都女子学園は「心の学園」と呼ばれるようになったのであります。