巳(蛇)年・願力無窮

親鸞聖人に関する、蛇(巳)にちなんだ言葉を拾ってみました。親鸞聖人のお生まれになられた、承安3年は西暦1173年に当たり、癸巳(みずのとみ)で今年と同じ干支です。
巳年の蛇は、脱皮することから再生を象徴しており、新しい自分に生まれ変わる。人生の転機とすべき道を示しています。

親鸞聖人は『教行信証』「化身土巻」に仏教以外の外道(げどう)を排して、仏道に入ることをすすめる事例として『仏本行集経』を引用しておられます。
ここに紹介すると、

兄弟である三迦葉(さんかしょう)に一人の甥(おい)がいた。彼は火を尊ぶ婆羅門(ばらもん)であり、名を優婆斯那(うばしな)といった。・・・優婆斯那(うばしな)はいつも、同じように火を尊ぶ婆羅門である250人の弟子たちとともに仙人の道を学んでいた。優婆斯那(うばしな)は、おじの三迦葉が多くの弟子たちとともに、釈尊のもとに行き、髪を剃り袈裟を着けたということを聞いた。優婆斯那(うばしな)はおじたちに会い、彼らに詩を説いて次のようにいった。〈おじたちはいたずらに百年間火の神を祭っていたことになり、またいたずらに苦行を修めていたことになる。今、三人が同じようにこれまでの教えを捨てるのは、蛇が古い皮を脱ぎ捨てるようなものであるが、それでよいのか〉
すると、おじの三迦葉(さんかしょう)は、声をそろえて詩を説いて、甥の優婆斯那(うばしな)に対して次のようにいった。〈わたしたちはかつていたずらに火の神を祭っていたのであり、またいたずらに苦行を修めていたのである。わたしたちが今、これまでの教えを捨てるのは、実に蛇が古い皮を脱ぎ捨てるようなものなのである〉(現代語訳)

このように外道(げどう)を捨てて、仏の教えに入ることは、蛇が皮を脱ぎ捨てるような簡単なことではありません。難中の難であります。大いなる本願力のしからしむるところであります。よくよく人間に生まれ、仏縁の深きことに感謝すべきでしょう。

その難しさを、稲垣瑞劔先生は、
「問題は「生死の問題」、人間として生まれて来た以上、人生においてなすべきことは沢山にありますけれども、生死の問題を解決することが一番立派な仕事、聖業であります。しかしこの問題が凡夫である以上、それが大切な問題であるけれども、それを大切であるということに気がつくということすらも、難しい問題で、これは何十年聴聞する人も、また何十年とお説教する人も、ご同様に「生死の問題」は口では言うてますけれども心の底からなかなか気が付かんものです。
親鸞聖人が六角堂へ九十九日の間ご参籠になって、それから法然上人の元へまた百日お通いになったのであります。雨の降る日も照る日にも一日も欠かさず法然上人の元へお通いになったということが奥さまの恵信尼公の手紙によってわかりますが、その時の恵信尼公のお言葉は「親鸞聖人は何のために六角堂へご参籠になり、また法然上人の元に百日もお通いになったか、どういうわけであるか」と言うと、「生死出ずべき道を求めてお通いになった」と書いてあります。《生死出ずべき道》と、こう。迷いの世界を離れて悟りの世界に行く。凡夫の身を転じて今度は佛様の身にさせていただく。これが《生死出ずべき道》ということです。」と、お話になられています。

改めて、新年を迎えた心構えをここに置いて日々を過ごしたいものです。

また、親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に、

うわべだけ賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。心のうちにはいつわりをいだいて、貪り・怒り・よこしま・いつわり・欺(あざむ)きの心が絶えずおこって、悪い本性は変わらないのであり、それはあたかも蛇(へび)や蝎(さそり)のようである。(現代語訳)

と、人間の罪業性を蛇や蝎にたとえて見つめられています。

そんな私が、阿弥陀仏の大いなる慈悲によってしか救われようのないことをまた示される言葉でもあります。そのよろこびを瑞劔先生は、

「佛様はちゃんと我々を佛にする道を知ってござるんじゃ。我々は佛になる道は知らんけど阿弥陀はんは知ってござるんや。どういう風に知ってござるか言うと「南無阿弥陀佛という本願力のよび声をおれがかけてやったら強剛難化(ごうごんなんけ)の衆生じゃけども、何時かは俺のよび声を聞いてくれるじゃろう、「落としはせぬぞ、必ず救う」のよび声とともにわしの大慈悲心、大慈悲力が衆生の心に届くじゃろう」と思うて久遠劫来よびづめにしてござる。とうどう終いに「そうでござりましたか」と言うて、よび声一つがありがとうなってくるやろ。自分の力では佛になれんということが、絶対になれんということが分かると同時に佛になるには「佛にせずにはおかん」という佛様の念力・願力やから必ず佛になれる、みんな佛になれる、一人残らず佛になれる。それだけ佛様のお力が強いんや。「大慈悲力」、「大智慧力」、「大誓願力」、「大三昧力」、「降魔力」、「光明遍照摂取衆生力」であって佛様の力が凡夫を佛にする力は向こうにあるんや、むこうに。こっち側には何もあらへん。「こっちはどんな力があるか」言うと「地獄へ行く力だけはある」。佛様はどうや?地獄へ行く者を助ける力が佛様にあるんじゃ。そこが「願力無窮」とこう言う。「願力無窮」というご和讃、これは『正像末和讃』にあるわ。

願力(がんりき)無窮(むぐう)にましませば 罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)もおもからず
佛智(ぶっち)無辺(むへん)にましませば 散乱(さんらん)放逸(ほういつ)もすてられず 『正像末和讃』【二七四】

と言う句や。覚えて極楽は往くんじゃないけれども、そのご和讃一つくらいが覚えられん者はいかんで、極楽へ往けんで、こりゃ。」

と、親鸞聖人のご和讃を引かれて話され、このご和讃一つくらいは覚えて、常に味わいながら日々を過ごすことが、真宗門徒としての勤めであると教え、さとしてくださっているのであります。

2013年01月01日 法話
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